朝鮮戦争とロシア-朝鮮半島政策への影響-1 バシーリー・ミキーエフ
朝鮮戦争の停戦から半世紀以上が経過したが、現在の朝鮮半島の政治情勢及び北東ア ジアの安全保障にはその影響が色濃く残っている。朝鮮半島には依然として分裂したま まの国が残されている。北朝鮮には旧来の政治的経済的制度がそのまま残っており、そ こに住む人々はグローバル化する世界から遮断されたままである。6 者協議参加国の政 治家や外交官は、北朝鮮の核危機に対する政策に取り組む際にはいまだに朝鮮戦争の結 果を考慮しなければならず、そのたびごとに、朝鮮戦争の歴史に端を発する核危機の根 源に立ち返らねばならない。
本稿では以下の 3 点に注目することにより、朝鮮戦争の歴史的重要性から出発し、ロ シアの安全保障上の利害を含めた世界的かつ地域的な安全保障上の問題の解明を試みる。 1.スターリンの「三重防衛線(The Three Circles of Defense)」構想の視点から見
朝鮮戦争 2.北朝鮮及び韓国に対するロシアの戦略的思考に見られる朝鮮戦争の影響 3.朝鮮戦争と現在の北朝鮮核危機
1 スターリンの「三重防衛線」構想の視点から見た朝鮮戦争
第二次世界大戦の前後を通じて、国家安全保障に関するスターリンの考え方の根本に は、ソビエト・ロシアと「世界帝国主義(World Imperialism)」の衝突は避けがたいと いう信念があった。スターリンの対外政策に加えて国内政策及び経済政策のすべては、 ソビエト連邦を世界規模の戦争に備えさせることに主眼を置いていた。それが経済の面 では軍事経済を生み出した。国内政策の面では、スターリン全体主義政権がロシア社 会全体を軍事的方法で支配していた。さらに対外政策及び国防政策では、スターリンは 「世界帝国主義」との戦力バランスを保つことに集中し、孤立主義政策をとり、戦争に 備えた。
「戦争準備」政策の流れの中で、スターリンは「三重防衛線」構想を提唱した。この 構想は概念的には「共産政権の平和と安定と引換えに支配地域を手放す」というものだ
1 本稿は、防衛研究所の主催で2006年9月20~21日に開催された「戦争史研究国際フォーラム」で、「朝鮮戦 争とロシア-朝鮮半島政策への影響-」と題する発表のために作成された。本稿に含まれる見解はすべて筆者 の見解で、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所中国・中央及び北東アジア安全保障研究センターの 公式見解あるいは意見を反映するものではない。
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った。この構想に関しては、スターリンは政治上の前任者であり「師」でもあったレー ニンの行動を踏襲していた。1918 年 3 月、共産党政権はロシア内戦と対独戦争を同時 に遂行していたわけだが、レーニンソビエト指導者の多数を占めた反対派を押し切っ て、ドイツとの間でブレスト・リトフスク条約を締結した。この条約は、戦争終結と引 換えに、ソビエト・ロシアの支配地のうちウクライナ西部を含むかなりの部分をドイツ に引き渡すというものだった。そうした術策によりソビエトの指導者たちは「白軍」と の内戦に集中することができ、結果的に「赤軍」に勝利がもたらされたのだが、1918 年の終わりにドイツ革命が発生し、ロシアはブレスト・リトフスク条約の破棄を通告し た。スターリンはこうした政策を成功例と見なしていた。
スターリンの構想によると、最終防衛線はロシアの領土を囲む線で、地理的にロシア の首都モスクワに近く、スターリン政権の命運を直接左右するため、守り抜かねばなら ない部分であった。
中間防衛線は、ソビエト社会主義共和国連邦(USSR)を構成するロシア以外の共和 国を囲む線である。この防衛線に関連して、1936 年制定のソ連の最初の憲法、いわゆる 「スターリン憲法」の、各共和国はソビエト連邦を「脱退」する権利を持つという、根 本において民主主義的な規定は、極めて興味深い驚くべき条項であった。各共和国にお いて、実際にその権利を行使するための手続きが明文化されていたわけではなかったが、 この権利の規定は非常に先進的なものに見えた。特に当時の西欧諸国の植民地支配のや り方を考えれば、なおさらであった。
しかし、スターリンは宣伝目的でこの条項を設けたわけではない。1930 年代半ば頃の 世界の安全保障上の状況について、スターリンは、「ソビエト連邦内の共和国が帝国主義 国家に敗北するようなことがあったとしても、それは社会主義の敗北を意味しない。そ れは、その共和国の社会主義者社会主義防衛のために全力を尽くさなかったというこ とであり、社会主義に対する裏切り行為であり、ソビエト連邦から除名されるのが当然 である。」と述べている2。当時、スターリンは、ソビエトの軍事経済及び軍隊は「世界 帝国主義者」との戦争で勝利を収めるほど強力ではないことを認識していたし、ソビエ ト連邦がそのような戦争に敗北する可能性を排除してはいなかったのである。
そういうわけで、スターリンは、1918 年にレーニンがドイツとブレスト・リトフスク 条約を締結した故事に倣って、自身の政権の安全保障を確保するために必要なら、ソビ エト連邦内の少数の共和国を平和の代償として差し出す考えを持っていた。そして、そ うした措置を実行する際、憲法上の問題が発生すると国内政治への自身の影響力がその 分弱められるため、そのような問題を発生させずに連邦から共和国を離脱させる特別な
2 V.I. Lenin, I.V. Stalin, O sotsialisitcheskom gosudarstve I sovetskoi democratii(社会主義国家及びソビエト 民主主義について)(Moscow, 1947), p.595.
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憲法上の方便がどうしても必要だったのだ。共和国がソビエト連邦から離脱する「権利」 は、まさにその方便だったのである。
無論、実際上は、共和国にソビエト連邦離脱の権利などなかった。スターリンは、ソ 連軍が戦争に勝利できない場合でも、自身の政治的権力を守るために、1 つないし少数 の共和国を犠牲にする自由を確保しておきたかっただけである。
第二次大戦終結後、スターリンは「外側防衛線」を形成した。すなわち、ヨーロッパ の社会主義国、及び中国と北朝鮮を含むアジアの社会主義国である。この時点で、スタ ーリンは「三重防衛線構想」を考え出した。ソビエトの安全保障上、ソビエト連邦の国 境線の外側に「恒常的緊張地域(Permanent Tension Areas)」があれば有益であろうと 考えたのだ。ヨーロッパにおいては、それは東西ドイツの分裂であり、アジアにおいて は、中台紛争及び南北に分断された朝鮮半島であった。
スターリンの論理は次のようなものであった。すなわち、ロシアは「世界帝国主義」と の戦争の準備が整っていないので、時間を稼がなければならない。恒常的な紛争により、 「世界帝国主義」の注意と軍事力行使の対象がロシア自体からソビエト国境外周部の「恒 常的緊張地域」にそらされるであろう。緊張は地域軍事紛争の形態を取りうるが、これ によっても、西欧の軍事力がロシア以外に向けて行使されることになる。ただし、そう した紛争が、ロシアが参戦しなければならないような大戦争に発展してはならない。ロ シアはまだ準備が整っていない、というものであった。
スターリン朝鮮戦争への態度は「三重防衛線」構想及び「恒常的緊張地域」によっ て決定した。金日成の南への急速な侵攻が失敗に終わった後も、スターリン北朝鮮へ の軍事支援及び経済援助を継続したが、それは限定的なものであった。スターリンは、 朝鮮戦争が当分の間「くすぶり続ける」こと、そして米国の軍事力が、軍事的経済的に 極めて弱体なロシア極東地域以外に指向されることを望んでいた。
スターリンの死後、ソビエト・ロシアはその安全保障戦略を「西側との不可避の戦争 への準備」から、米国との間で核抑止力と国際的影響力をめぐって地球規模の競争をし つつ「平和的共存」を図る戦略に変更した。
この新しい視点から、モスクワは朝鮮半島での武力衝突はいかなるものでも反対した。 米国と直接軍事的な対立に巻き込まれたくはなかった(平和的共存)。一方、モスクワは 金日成政権への影響力を強化しようとした(国際的影響力の競争)。そうしたわけで、ソ 連は 1961 年、北朝鮮との間にソ朝友好協力相互援助条約を締結したが、朝鮮半島にお いて武力衝突を引き起こしたのが米国または韓国ではなく北朝鮮であることが判明した 場合は、援助を引き上げる権利を留保した。
その一方、モスクワはまた、朝鮮半島の統一にも反対した。第一に、統一が平和裏に しかも「社会主義者」の考え通りに行われると確信できなかったためである。第二には、
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統一朝鮮において米中の影響力が増大し、ロシアが影響力を失う危険があること、また、 米軍基地がよりソ連極東地域の国境に接近する危険を考えたからである。
このようにして、北朝鮮は「三重防衛線」戦略の一環としての役割を失ったのである。
2 朝鮮半島に対するロシアの戦略的思考に見られる朝鮮戦争の影響
(1) 朝鮮戦争自体が、ロシアの軍事ドクトリンや朝鮮戦争後のロシア社会に影響を及ぼ したわけではない。朝鮮戦争に関する情報は非常に限られていたために、ロシア社会で この戦争について分析的に議論されることはなかった。問題は、朝鮮戦争によってソビ エト連邦が非常に複雑な政治情勢の渦中に置かれたことであった。モスクワの公式筋は、 自国民に対してこの戦争の真実をありのままに話すことができなかったのである。
第一に、公式にはロシアは朝鮮半島における軍事作戦に参加していなかったにもかか わらず、実際はロシアのパイロットが中国の基地から発進して米国のパイロットと戦っ ていた。ロシア人が朝鮮戦争に参加していたことは、1980 年代になって軍部が公式に認 めたばかりか、ロシア人パイロットの被撃墜率が米軍パイロットとの比較で 7~11 分の 1 であったことを指摘してロシアの軍事的ナショナリズムを強化するために使われてい る。
第二に、モスクワは、戦争を始めたのは北朝鮮の方であることを熟知していた。しか し、公式発表は「南の資本主義傀儡政権」が「北の社会主義政権」を攻撃したというも のであった。このように、戦争についての客観的で正しい情報が欠けている状況では、 ロシアの指導者たちは人々の関心が戦争に向かないように努め、ロシア軍が北朝鮮を援 助している事実を秘密にしておくほかなかったのである。
軍事技術の面では、ロシア対米国の空中戦闘でロシア製ジェット戦闘機は時として運 動性で米軍機に劣っていることが明らかになった。この事実から、ロシアの軍事技術が 軍用機の運動性向上に向けられるようになったのである。
概して、1950 年代後半のロシア社会及び安全保障政策に影響を及ぼしたのは朝鮮戦争 ではなく、スターリン後のロシアの政界深部での変化と、米ソの国際的パワーバランス の変化であった。
一方で、事実上、朝鮮戦争はロシアの「朝鮮半島に対する戦略的思考」に大きなイン パクトを与えた。スターリン後のロシアの歴史において、モスクワの朝鮮半島に関する 外交行動もしくは軍事行動はすべて、直接的または間接的に、明示的にまたは暗黙のう ちに、朝鮮戦争の結果に左右されていたのである。
(2) 1953 年 3 月にスターリンが死去し、朝鮮戦争停戦後の 1950 年代、ロシアの政治エ 65

リートたちは「脱スターリン化」プロセスを開始した。ソ連指導者となったフルシチョ フは、スターリンの「個人崇拝」を批判するにあたり、全社会主義陣営からの支持を求 めた。しかし、金日成にとって、スターリンは 1945 年に自分を北朝鮮の指導者として 事実上指名した「政治上の父」であるばかりではなく、朝鮮戦争時の支援者でもあった ことから、フルシチョフの脱スターリン化政策を拒絶した。金日成の目にはまた、ロシ アでの「個人崇拝」批判は自己の個人的権力に対する脅威と映っていた。その反応とし て、モスクワの指導者たちは、1958 年、金日成をより「モスクワ寄り」の指導者にすげ 替える試みを実行に移したが、失敗に終わっている。
その結果、モスクワと平壌の関係は冷え込み、金日成は、米ソの覇権争いと、イデオ ロギー及び地政学上の中ソ対立という新しい地政学的枠組みの中で、政権生き残りの新 たな道を模索せざるを得なくなった。
1960 年代北朝鮮は、金日成政権の権力を維持する試みとして、モスクワと北京の間を 政治的に巧みに泳ぐ道を選択したが、モスクワは中国との間で朝鮮半島への影響力を競 う闘争上の都合から北朝鮮を見ていた。
韓国がロシアと北朝鮮の関係に影響を及ぼしたのはわずか 1 度だけで、それもわずか なものであった。1973 年、ユニバーシアード・モスクワ大会において米国及びその他西 側諸国からの圧力にさらされたロシアは、韓ソ関係の歴史上初めて韓国選手団を受け入 れざるを得なくなった。北朝鮮は、それに対する怒りの表明として、選手団の派遣を取 りやめた。
(3) 1970~80 年代、モスクワの朝鮮半島政策の変化における重大局面
1980 年代を迎え、ソ連南北朝鮮に関する戦略的認識に質的変化が発生した。それま での WSS(World Socialist System:世界社会主義体制)内における差別化過程及び南
北間経済力の相関関係に変化が生じたことに基本的な要因があった。
WSS 内部プロセスの複雑さと中ソ紛争のため、ソビエト連邦共産党中央委員会
(Central Committee of the Communist Party of the Soviet Union、CC CPSU)は、 ヨーロッパの社会主義国、及び中国などのいわゆる「欧州外」社会主義国との関係につ いて、単一の政治的取扱いを適用するわけにはいかなくなっていた。1970 年代半ばの WSS メンバー国に対するモスクワによるこのような待遇の違いには、WSS という構想 の核が「社会主義国家間の友好」(それは、ワルシャワ条約機構の加盟国及びモンゴルを 意味すると理解されていた)というイデオロギー上の原則が用意されていた。ベトナム 及びキューバは「経済相互援助会議(COMECON)の欧州外メンバー国」という地位 が与えられていた。また、ユーゴスラビア及びアルバニアは、1960 年代初めからソ連と の外交関係がなく、「社会主義国家間の有効」の枠組みの対象外とされた。中国は、対立
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                           ミキーエフ 朝鮮戦争とロシア
する「社会民主主義」国と見なされた。北朝鮮もまた、枠組み外の国と見なされたが、 その中でも親中国の「毛沢東主義」的傾向を持つ国とされた。実際の政策の上では、北 朝鮮は、モスクワと北京のどちらを取るのか、つまりどちらを支持するのかを選択する 必要があるとされたが、北朝鮮はそれでもそれまでと同様に、ソ連と中国の間の遊泳を 続けており、そうした行動こそが金日成政権の安全を保障する主な手段であると考えて いた。
WSS の再構築は実際の政治的、経済的結果を生み出した。対北朝鮮政策を支えるた めに、モスクワは広範囲の軍事技術協力を手控え、北朝鮮の指導者に、もし平壌が韓国 に対する軍事行動を起こすのならば北朝鮮の味方はしないということを理解させた。経 済面では、1980 年代に入り、北朝鮮に対する態度を厳しいものにし、ソ連に対して商業 上の義務を果たすよう要求し、そうした義務の履行状況が不誠実と見なされれば石油の 供給を削減して圧力をかけた。
モスクワは公式には韓国を独立国家と認めておらず、米国の「衛星国」であり一人前 の「国」ではない「地域」だとしていた。それにもかかわらず、80 年代に入ってからの モスクワでは、1970 年代半ば以降の北朝鮮は経済発展の面では韓国に対して後れを取り 始めたと結論を下した。そして、韓国を、極東ロシアの経済発展に貢献する能力を持つ、 経済面の潜在的パートナーと見なすようになった。政治的にも、韓国独自の外交上の利 害というものがあり得るし、それは必ずしも常に米国の利益と一致しているわけではな いという事実に注意を払うようになった。こうした状況から、ロシアの学術界及び政界 では、北東アジアで強まりつつある米国の影響に対抗するために「韓国独自の利害」と 見なされるものを利用できると考えられるようになった。
短命に終わったアンドロポフ政権(1982~83 年)下、朝鮮半島情勢に対するこうし た政策に転機が訪れた。この期間、ソ連軍上層部は、米日韓で強まりつつある軍事・政 治協力に対処する方法を見いだそうとしていたが、極東ロシアの国境線防衛のための統 合システムの一部として北朝鮮を意識し始めた。こうした状況の下、ソ連北朝鮮に対 する軍事援助をすぐにも強化しようとしていたが、北朝鮮は、韓国が米国の助力によっ て成し遂げつつある軍備の近代化に対抗して軍の近代化を行うための援助を執拗に要請 していた。
上記のようなソ連北朝鮮の間の新しい軍事的・政治的パートナーシップの概念は、 あくまで平壌がモスクワに対して忠誠心を持つことを前提としていた。しかし、ソビエ トの指導層には、平壌は大規模な軍事援助を受け取りつつロシアと中国に二股をかける 政策を継続するのではないか、という疑いが根強く存在していた。この状況をはっきり させるために、アンドロポフは、金日成と個人的に会見し、モスクワと北京のどちらの 側に付くつもりなのか厳しく問いただすことを決意した。
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平壌に対する圧力にてこ入れするために、「韓国カード」が切られた。ソ連は、一方で は、1983 年、第三国経由の貿易など、韓国との間接的取引を一切禁じる禁止令を出した (直接の貿易はもともと存在しなかった)が、他方でソウルとの貿易対話が準備されて いた。ソ連は、1983 年 10 月初めに予定されていた列国議会同盟(Inter-Parliamentary Union、IPU)の第 70 回会議に代表団を派遣する予定でいたが、この代表団は韓国に対 する重要な貿易経済提案を提示する予定になっていた。ただし、この時点では国交樹立 についての話し合いはなかった。
ソ連代表団とともに、ヨーロッパ社会主義国のすべてがソウル行きの準備をしていた。 平壌は、そうした準備中の行動は韓国の国際的孤立を破るもので、自国の安全保障に対 する一連の脅威であると見なしていた。8 月初め、北朝鮮指導部は、東ヨーロッパの友 邦にソウルに行かないよう迫るという苦肉の策に出たが、東ヨーロッパ各国の全政府が 拒絶した。ソフィア、プラハ、及びワルシャワは、ソ連代表団がソウルに行く以上、自 国代表団も同行しなければならないと主張した。ベルリンは、ボン政府が参加するため、 行かないわけにはいかないという事実をほのめかした。ブダペストは、これは内政問題 であり平壌政府の介入を受けるいわれはないと厳しく回答した。さらに、ブカレストは、 「米国帝国主義」に対する共闘として、北朝鮮もソウルに行くべきだと提案してきた3。
1983 年 8 月、ソ連領空での大韓航空機撃墜事件により地域の情勢は複雑化し、その 他の社会主義国の代表団同様、ソ連代表団の訪韓はもはや問題にもならなかった。直後 にアンドロポフが死去し、1984金日成の訪ソがともかく実現した。チェルネンコのソ ビエト指導部は北朝鮮の中国寄りの姿勢を穏やかに「たしなめ」たが、一方で、ソ連は、 北朝鮮を、米国の北東アジアでの影響力に対抗する極東の弧の一角とする狙いで、いつ でも軍事援助の強化に進む用意があることも表明した4。
(4) 北朝鮮について考慮すべき可能性は 1985~1986 年の時点ですでにゴルバチョフ政 権が利用していたものだった。北朝鮮は、ソ連が、前記のとおり北朝鮮に「日米韓の三 角形」に対抗する軍事的前哨地点としての役割を見いだして軍事的リーダーシップを握 ろうとしたときにそれをうまくあしらっていたし、1986 年~1990 年には戦後期を通じ て前例のない規模の軍事援助を受け取ること、さらには北朝鮮国内の原子炉建設につい ての約束を得ることにも成功していた。これらは、ゴルバチョフ流の「柔軟な」方法で 行われ、結果的に当初のロジックを失うに至った。すなわち、こうした軍事援助及び原 子力エネルギー開発援助と引き換えに、平壌は北京を「切り捨て」、明確なロシア寄り反
3 V. Lim, Vzlet bez posadki: Taina gibeli Iuznokoreiskogo samoleta KE-007(着陸なき離陸:大韓航空 KE007 便墜落の謎)(Moscow: Izdatel’stvo “Luch”, 1992), pp. 153-154.
4 Vasily V. Mikheev, “Reforms of the North Korean Economy: Requirements, Plans and Hopes,” The Korean Journal of Defense Analysis, Vol. 5, No. 1, Summer 1993, p. 93.
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中国的立場を取るという具体的な約束を一切していなかった。しかし、それこそがこの 「取り引き」の本質として当初考えられていたことであった。
ソ連北朝鮮の間の軍事協力の大幅な拡大という事実は、ゴルバチョフ政権の対米緊 張緩和と軍縮交渉の路線と矛盾している。しかし、筆者の意見では、この矛盾をクレム リンの「策略」であると考えるのは誤りである。これは単にソ連指導部の北朝鮮に対す る政治的戦略的ビジョンの不在を示すにすぎず、それを平壌の政治指導部が利用し、軍 事技術及び原子炉へのアクセスという目標を据えて、党官僚を通じてモスクワへの圧力 を強めたということなのだ。当時、米国の北東アジアでの軍事的プレゼンスに対抗する 前哨地点として北朝鮮を利用するという 1980 年代の政策がソ連軍幹部の脳裏に惰性と して残っていたため、こうした北朝鮮の圧力はそのようなソ連軍幹部の利害とも一致し たのである。
原子炉についていえば、モスクワは、核分野で北朝鮮と協力する危険は理解していた。 そこで、前提条件として、平壌国際原子力機関(IAEA)及び核不拡散条約(NPT) の枠組み協定に従ったタイプの装置を受け取るものとされ、その通りに実行された。
1980 年代終わりに政策が崩壊したにもかかわらず、モスクワは北朝鮮を引き続き疑い の目で見つつ取り扱っていた。ソ連の利益に反する形で、北京と協力関係を結んでいる のではないかと疑っていたのである。また、ゴルバチョフ政権は、北朝鮮当局がペレス トロイカへ敵意を示したこと、「新思考」とグラスノスチに対し積極的、国際的に反対し たことを不快に感じていた。平壌ではゴルバチョフの「改革」を社会主義ソビエト連 邦、さらには北朝鮮自体に対する脅威と見なしていたのである。さらに、ソ連は軍事的 な協力を強いていたが技術的に制限を付けて援助を行っており(北朝鮮に対しては最新 の技術譲渡が行われていなかった)、原子炉に関しても作業ペースは遅く、原子炉建設工 事のひとつの領域の一部分が終了しただけであった。
同時に、ゴルバチョフの「新思考」により、ソビエトの学術界及び官界の指導者の間 に、韓国を強力な長期的経済パートナーと見る考え方が広がっていた。モスクワを韓国 との会談の方向に促した外部からの刺激として決定的だったのは、1988 年のソウル・オ リンピックであった。モスクワ・オリンピックでのボイコットには「社会主義の友好国」 である中国も加わっていたわけだが、これはオリンピック運動に大きな打撃となり、そ れに続くロサンゼルス・オリンピック(1984 年)のボイコットでさらに強められた。そ して、こうした問題はすでに、ゴルバチョフの緊張緩和方針と矛盾するものであった。
ソ連がソウル・オリンピックに参加するか否かの論議が行われている期間中、クレム リンは韓国の非公式だが積極的な働きかけと、公式な北朝鮮の圧力の板ばさみとなって いた。平壌は、政治的手段ではソ連の参加を阻止するのは難しいと悟ると、より強力な 対抗手段をとった。主なものは、1988 年夏の、北朝鮮ソ連の核援助を軍事目的に利用
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することができるという情報のリークであった5。特殊部隊による確認作業でも平壌が軍 用核技術の研究を行っていないことを確認できなかったが、モスクワはいらだちを強め た。クレムリンは、体制として北朝鮮は「ソ連の影響圏」内と分類していたので、北朝 鮮の行動により米国との間で進行中の核軍縮交渉における自国の立場が損なわれると考 えたのである。ソウル・オリンピックの準備中、モスクワは、依然として社会主義諸国 にボイコットを働きかけている北朝鮮を、韓国に滞在中の自国選手団の安全を脅かす存 在であると考えていた。
たとえ明白なかたちではないにしても、北朝鮮はモスクワの利益に対する脅威である という認識から、ソ連の学術界及び官界の指導層の一部に韓国との国交正常化を目指そ うという機運が生まれ、さらに、特に外務省の上層部において、ソウルとの国交に反対 する人々の立場が弱くなった。ソウル政府はこの状況を効果的に利用し、実際には 1990 年にモスクワは、国交樹立の見返りとして 30 億ドルの商取引き及び経済援助を韓国に 提供している。
このように、ソ連崩壊前夜、モスクワ政府は北朝鮮を以前と同様「社会主義の友好国」 と見ていたとはいえ、ペレストロイカを受け入れず安全保障や緊張緩和の面で問題を引 き起こす「良くない友」と見ており、一方、韓国に対しては潜在的に経済援助供与国で あると見ていたのである。最もよく知られているように、ソ連が韓国との経済協力につ いて抱いた期待は過大なものであったことは、1990 年代の深刻な失望を通じてソ連自身 の目にも明らかになった6。
(5) ソビエト連邦及び社会主義体制の世界的崩壊とともに、ロシアにとって平壌政府と の関係は、価値が下落し、韓国資本に対する過剰な期待がさらに高まった。民主的スロ ーガンに頼るエリツィン政権は、北朝鮮を敵としないまでも改革の反対者であり、友人 でも経済上のパートナーでもなく、「友好」の関係を築こうとすればロシアが新たに得た 民主主義国としての国際イメージを損なう以外にない存在、と見なしていた。北朝鮮エリツィン政権の政敵である共産党と引き続き積極的な結びつきを保っていたのも、ク レムリンにとってもう 1 つの不満材料であった7。
ソビエト連邦崩壊の結果、ロシアと北朝鮮との経済的、軍事的結びつきは無に帰した。 外交政治上の結びつきは、より公的で堅苦しいものになり始めた。平壌政府は、こうし
5 VasilyV.Mikheev,“Koreiskaiaproblemaivozmozhnostieeresheniia(朝鮮問題とその解決策)”(Moscow: Moscow Carnegie Center, No. 5, 2003), p. 14.
6 Vasily V. Mikheev, “Soviet Policy Towards the Korean Peninsula in the 90-s,” Korean Studies, 1991, Volume 15, pp. 31-49.
7 Vasily V. Mikheev, “Russian Policy towards the Korean Peninsula after Yeltsin’s Reelection as President,” The Journal of East Asian Affairs, Summer/Fall, 1997, pp.348-77.
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たことを支配体制の維持という視点で見たときに、モスクワがもはや頼りにならず、 1992 年に韓国と国交を樹立した中国も以前ほどは頼りにならないと考え、新たな安全保 障戦略を考えた。つまり核による脅威を通じて米国を直接対話の場につかせ、閉鎖的で 権威主義的な性格を持つ北朝鮮社会を変えることなく、権力の維持を図ろうとしたのだ。 こうした政策は、クレムリンにさらに大きな懸念を引き起こさせた。クレムリンの当時 の関心事は、エリツィンの権威を維持することであり、モスクワの直接の利害に関わら ない国際問題に深い関わりを持つことは望んでいなかった。そして、平壌の核への野心 に技術的可能性の裏付けはなく、核危機の最良の解決法は米国に任せておけばよいと考 えていたのである。
それと平行して、ロシアと韓国との関係においては、以前締結した経済協力関係が期 待どおりの成果を上げていないことについて不満が高まっていた。ソウルは、ロシアで の外国企業の活動がいかに困難であるかを述べたて、韓国自身にとっては結局のところ 1990 年にモスクワとの国交を「買った」のであり、それは 1992 年にソ連が崩壊した後 も追加費用無しで同じ効力を持つはずであるのに追加援助が必要なことに困惑していた。 モスクワ政府はそれに対して、ソウル政府がロシア経済への投資に消極的であると非難 した。
1990 年代半ば、モスクワの南北朝鮮に対する戦略認識に新たな転機が発生したが、そ の要因となったのは以下の 3 点である。第一に、チェチェン紛争ナショナリズムの勃 興というロシア内部の変化、第二に、NATOEU の拡大、及び本土ミサイル防衛 (NMD)システムの開発を計画中の西側とロシアとの関係変化、第三に、1994 年の米 朝枠組合意及び 4 者(南北朝鮮、米国、及び中国が参加、ロシアは不参加)会談のアイ ディアによる朝鮮半島の変化である。モスクワでは何よりもまず北朝鮮の反米政策とい うカードを弄ぶ可能性が考慮されたが、次には、1 つまたは複数の方法で北朝鮮政府と 暖かい関係を築き、ソウルに「圧力をかけて」ロシア国内へのさらに積極的な投資活動 を促し、朝鮮半島問題における自国の政治的役割を認識させるということも考えられた。
その結果、外交関係者の中に、南北朝鮮同時の「並行的」関係の発展という非公式の 概念が発生した。この概念の目標には、1990 年代前半のうちに、北朝鮮との関係の希薄 化に何とかして歯止めをかけること、さらにロシアに利益がある限り、ソウルとの関係 発展と「並行する」かたちで平壌との関係発展を図るということも含まれる。これはつ まり、それぞれ無関係の 2 つの関係が独立して存在しているということなのである8。こ れはまた、何らかの利益が予測される場合、南北朝鮮の一方との関係を、もう一方に圧 力を掛けるために利用できるということをも意味している。
8 Vasily V. Mikheev, “Russian Policy towards North Korea,” New Asia, Winter 2000, Vol.7, No.4, pp.137-40. 71
 
ここでは、ロシアの政治エリート及び専門家エリートたちは、南北朝鮮を現実的に認 識することから始めていた。北朝鮮については、真の経済的パートナーと見なす者は皆 無だったし、政治的な点から見れば、一部のエリートにとっては全体主義的な敵であり、 関係しない方がよく、撃滅されるべき存在であったし、他の一部にとっては、米中韓と ロシアの駆け引きの場合に限り通用する通貨にすぎなかった。韓国は、すでに以前の過 剰な期待は持たれなくなっていたが、依然として潜在的に重要な経済的パートナーだと 見なされていた。政治的には、ロシアは韓国を国際関係において米国寄りの構成要素と 見なしており、韓国に対する特別な計画は作成していなかった。
(6) プーチンの登場とともに、NATO の拡大及び米国国家ミサイル防衛(NMD)シス テムをめぐる米国との世界規模の駆け引きにおいて、また、朝鮮半島の運命を決するに あたりロシアにも参加権があることを中韓に認めさせる駆け引きにおいて、モスクワが 北朝鮮カードを弄ぶ傾向が強まった。
権力の座に着くとともに、プーチンは、外交政策の面では NATO の拡大と米国による 国家ミサイル防衛(NMD)システムの構築という問題に直面し、個人的には、世界の 指導者とともにどう振る舞っていくべきかという問題を抱えていた。2000 年夏、プーチ ンが初めて参加するサミットとなった日本での G8 も初めての経験であった。G8 会談の 直前に行われた平壌訪問は、その年 6 月の南北会談の直後であっただけに、しばらくの 間、プーチンが他の指導者たち(その中の誰ひとり平壌に行ったことはなかった)の注 目の的となる結果となった9。
しかし、米国との駆け引きで「北朝鮮カード」を利用しようというそれ以外の試みは 失敗に終わった。モスクワは北朝鮮に対して、安全保障についての米国との二国間交渉 における立場の強化につながる提案をしていたのだが、北朝鮮の方は軍事援助を期待し ていたのである。結果的に、両者は外見上の良好な関係を維持することを決めた。北朝 鮮は外交上の策略をめぐらす余地を確保しておくために、ロシアは、朝鮮問題の処理に ついての自国のプレゼンスのデモンストレーションとして。したがって、モスクワ政府 の対北朝鮮国家戦略は、系統立てられず放置されることになった。
韓国は、依然としてロシアを経済面の潜在的パートナーであり、政治的には北朝鮮と の対立において米国側に立つ存在であると見ていた。しかし、対北朝鮮戦略について米 国とは異なる独自のものを見いだそうと懸命に努力していた。そこに新たなニュアンス が加わった。つまり、ロシアが中国との経済関係を急速に発展させ、新たに日本からの 投資を期待できるようにもなったのだ。その結果、韓国は、ロシア経済の中でも極東セ
9 VasilyV.Mikheev,“South-NorthReconciliationandProspectsforNorthKorea–RussiaRelations,”Asian Perspective, 2001, Vol. 25, No. 2, p. 37.
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クターの問題解決にのみ関わるという二次的な位置に追いやられたのである。また、当 初ソウルとワシントンの政策面の相違がモスクワの注意を引きつけたのだが、結局わず かなものでしかないと見なされるようになった。韓国を外交的な駆け引きの中で実際に どのように利用するかという問題は、反米的傾向の最も強い一部の専門家の間でしか話 題に上らなくなった。
プーチン政権になって時間が経つにつれ、ロシアの対韓政策にはある種の変化が発生 した。この変化は、概してロシア内部の政策的変化の結果であったが、北東アジア、特 に北朝鮮の核危機の結果として生じた朝鮮半島情勢の変化も原因となっていた。その過 程において、ロシアの朝鮮半島への影響力は増大したのか、または逆に減少したのかと いう問いには簡単に答えることはできない。一方で、ロシアは、北朝鮮指導部に核不拡 散体制に復帰するよう説得できるほどの影響力は必ずしも持っていない。しかし、旧ソ 連が北朝鮮に対して大規模な経済援助及び軍事援助を提供していた時代でさえ、ロシア の利益のために行動するよう平壌に強要することはしばしばできなかったのである。一 方、プーチン金正日の個人的接触により、朝鮮半島情勢の管理に取り組む各国がロシ ア外交を尊重する機運が高まり、エリツィン政権時代と比較して今日のロシアの政治的 地位を客観的に高めることとなった。
(7) 2001 年 9 月 11 日以降、ロシアの対外政策にも根本的な変化が起きた。ロシアはそ の時点では米国を支援しつつ、モスクワとワシントンの間に新たな関係を築く道を選ん だ。その核心にあったのは、戦略的安定性の問題、テロリズムとの戦い、及び大量破壊 兵器の拡散防止であった。しかし、問題は、戦略的安定及び新たな脅威との戦いに関す る米国及び西欧との相互影響というプーチンの考える新外交政策が、ロシアの外交政策 の他の方面に自動的に短い時間で浸透するというわけではなかったということだった。 米ロの覇権争いは世界中で進行中であるという、イデオロギーのレベルで外交官の脳裏 に刷り込まれている昔ながらの印象と、官僚主義の惰性が依然として働いていたのだ。 さらに、今は中国についても考慮しなければならない。
近年、ロシアでは、南北朝鮮に対して平行的に関係を構築していくという 1990 年代 の路線を修正した。「南北それぞれについて個別のロジックによる」という計画に従い、 個別に関係を構築するという政策は、平壌とソウルがそれぞれロシアと相手との関係に 油断なく追随したため、効果がなかった。このことから、モスクワは、北朝鮮も韓国も、 世界市場の発展の活性化因子ではあるが、個別の状態では経済的にも政治的にも対等な パートナーには全く成り得ないということを理解した。
北朝鮮との関係強化に高い優先順位を置くことで、朝鮮半島でのロシアの影響力を強 化するというロシア外交の目標は実現せず、平壌は核危機を引き起こすことでロシアの
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立場を微妙なものにした。朝鮮半島における近年のロシアの外交活動では、平壌に対し てモスクワの言葉に注意深く耳を傾けさせることはできなかった。そして、ロシア外交 は、自らが 2 つの論理の板挟みになっていることを発見することになったのである。す なわち、一方では核保有国として大量破壊兵器不拡散に責任ある行動を取り、米国が北 朝鮮に対して見せているのと同様の厳しい態度を取る必要があり、もう一方では、首脳 外交の結果としての北朝鮮との関係改善を目指すことができ、この場合は対北朝鮮圧力 ということでいえばモスクワには制約が発生するのだった。
このことから、ロシア自身の読みでは朝鮮半島で目標とする利益(それ自体公式のも のであるが、モスクワは確認していない)は、韓国の民主的な経済市場により、北朝鮮 を吸収する際に産み出されるものだが、それには以下のような前提がある。
a) 北朝鮮の政権及び市場経済民主主義的方向への変化
b) 朝鮮半島内の信頼醸成手段の形成
c) 北朝鮮と韓国との外交関係の樹立(南による北の吸収へとむかう動きの中間段
階として) d) 核危機の解決
こうした狙いを実現するためには、平衡的ないし並行的な政策ではない別の政策が必 要であるが、何よりもまず、米国、ロシア、中国、EU、韓国、及び日本の北朝鮮政策 を連携させるメカニズムを創設する積極的作業をロシアが行わなければならない。しか し、モスクワ当局にはまだその準備ができていない。
今日、現実には、クレムリン北朝鮮朝鮮半島の情勢を全地球規模での対米・対中 関係の文脈で解釈している。つまり、クレムリン朝鮮半島の具体的問題に関して独自 の見解を持っていないことになる。外務省、権力機構内の人物、及び専門家の意見に従 っているだけなのだ。近年、モスクワと金正日の関係に変化が見られる。当初、ロシア は金正日のことを「ともに働くことのできる」政治家と見なしていたが、その後、金正 日からしつこく繰り返される援助要請にいらだつようになった。2002 年終わりから 2003 年初めにかけて、金正日は、核不拡散条約から脱退し、国際原子力機関への協力を 拒否したが、北朝鮮のこの行動によりクレムリンホワイトハウスに対して居心地の良 くない立場を取ることになった。米ロはすでに、核不拡散体制の維持を共通の利益とす る合意に達していたのである。
ロシアは、金正日との関係についていまだ行動計画を持っておらず、多国間交渉で状 況を正常化しようとするロシアの仲介努力を北朝鮮が拒否し(金正日はロシアが提案し た「包括的合意案」を拒否した)、ロシアを自国の安全を保障する存在とは見なさないと いう態度を明らかにしたため、ロシアは朝鮮問題に関してはしばらく静観することにし た。ロシアとしては、米国が自身で北朝鮮情勢の統制にあたることを望んでおり、それ
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から、北朝鮮政権の安全を保障する役割を担おうと考えていたのである。しかし、ロシ アは自身の役割を果たすことで、米国から、ロシアと北朝鮮の反米同盟が復活したと解 釈されるようなことは望んでいなかった。したがって、クレムリンは 2002 年終わりの 時点ですでに、その時までのところまだしっかりとは成立してなかったが、米ロ中の三 国で協力し北朝鮮の安全を保障するというアイディアを考え出していた。同時に、朝鮮 半島情勢の変化に備えて、また上記の政策からも、朝鮮半島についての対米・対中関係 において新たに妥協が必要になった場合の「予備」として金正日を支援し、良好な関係 を維持していた。
モスクワはまた、依然として、北朝鮮に対する行動を急ぐ必要を考慮していなかった。 ロシアの駆け引きへの積極的介入及びロシアの対北朝鮮戦略の柔軟路線から強硬路線へ の転換があるとすれば、それは、北朝鮮弾道ミサイルの発射実験または(ありそうに ないが)核実験がきっかけになるだろう。ロシア外務省が、平壌に対して長距離弾道ミ サイルの発射実験を実施しないよう常に説得しようとしているのは偶然ではないのであ る。
ロシアの専門家の中に、北朝鮮核兵器開発プログラムを持っていることを認めない 者はいない。しかし、北朝鮮が核爆弾を持っているかどうかという点では、専門家の意 見は分かれている。1 個か 2 個の核爆弾を保有しているという者もいるし、北朝鮮が原 子爆弾の所有を強く望んでいるにもかかわらず技術的な理由で実行できていないという 者もいる。政治的には、モスクワでは、核兵器保有の事実が確認された場合は平壌に対 する態度を急激に厳しくしなければならないことから、朝鮮半島での行動については前 述の「第二の論理」が力を持っており、強硬策をとる準備はまだできていない。
クレムリンは、南北統一の道筋として独自の展望をすでに持っている。モスクワの公 式の立場としては、平和的手段により外部からの干渉を排除した統一を支持するという ことになる。しかし、ロシア自身にとっては、まさにこの「自国にとって」ということ が第一優先であり、ソウルと平壌から提案された方式による南北統一はあてにしていな い。そしてこうした統一の仕方を恐れているのである。
ロシアは、統一は現実的には南による北の吸収という形で行われるだろうし、統一朝 鮮の政治・経済に関する法律は南のものになるであろうということを認識している。こ こから、通過すべき段階として、北に対する「関与」政策及び韓国資本の北朝鮮への浸 透が考えられるが、一方で、ロシアでは、金正日の生きている間は統一は実現しないと いうことが確信されている。
ロシア指導部の南北統一についての基本的な政策は、朝鮮半島の現状を可能な限り長 い間変えないでおくのが最も有益であろうという事実からなっている。
それと同時に、北朝鮮で現実に市場改革が行われ、国有財産の民有化が行われるか、
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市場経済と民主主義の原則に立って南北の統一が行われるかした場合、旧ソ連の経済援 助によって建設された北朝鮮の 70 の工場物件について、ロシアの民間企業が民営化へ の参加に関心を持っている。そのような成り行きの場合、ロシアの大企業が対外政策か 利益を得られるよう積極的に働きかけているロシア大統領の注意が北朝鮮に引きつけら れることもあるだろうし、ロシアの外交活動が北朝鮮に向くように影響を与えるだろう。
ロシアの専門家は、金正日の死後、北朝鮮には別の形の崩壊があるということを認識 している。存命中に政治的後継者をきちんと準備した金日成とは異なり、金正日は依然 として後継者を決めておらず、そのせいで上記の崩壊が現実のものになる可能性がある。
事態の推移が否定的である場合のシナリオにおいて、主な脅威は、北朝鮮内部の混乱、 人道上の悲劇、及び難民の流出であろう。ロシアでは、そうしたシナリオの場合、主な 影響は韓国と中国で見られるはずだが、ロシア極東地域の状況についての懸念もあると 了解されている。
概して、朝鮮半島統一に対するロシアの姿勢は消極的なままである。ただし、モスク ワ政府が統一問題に関して何らかのアクションを取らねばならなくなった場合、また将 来米国との支配地域の取引を行う際にその一部としてとる態度によっては、これ見よが しの政治的に扇動的な行動を取ることもあり得る。ロシア実業界が北朝鮮国有企業の民 有化による利益をはっきり獲得できる状況においてのみ、ロシアは本当の意味で積極的 行動を取るであろう。
(8) 近年、ロシアの北朝鮮への態度にいくらかの変化が見られる。モスクワでは、北朝 鮮政権が両国の関係を以前の平和な状態に戻そうという意思を持たないことに対してい らだちを募らせている。2005 年 2 月 10 日の平壌核兵器保有宣言により、そのいらだ ちはさらに悪化しているが、平壌についての戦略認識に何らかの矯正を加えるという論 理的結論がそれに続くわけではない。こうしたニュアンスから、ロシアが平壌に対しそ の消極的行動を変更することが実際にあり得るということにはならない。その理由は以 下の通りである。
第一に、平壌の高位の指導者と個人的に接触があるにもかかわらず、ロシアは平壌に 影響力を及ぼす手段を何も持っていない。さらに、平壌はロシアを自国の安全を保障す る存在とはもはや見なしておらず、そのような保証を提供できるのは米国のみであると 見ている。第二に、ロシア実業界は、北朝鮮で市場改革が行われておらず、同様に、自 分たちが参加可能な民営化プログラムも存在しないことから、北朝鮮には何の関心も持 っていない。さらに、政治状況が不透明であることから、ガスパイプライン、石油パイ プライン、または鉄道に対する投資はあまりに危険である。
第三に、ロシアは朝鮮半島からロシアに対する深刻な脅威が発生するとは見ていない。
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その理由は以下の通りである。1)金正日政権が北朝鮮の政治情勢を支配しており、国内 に「爆発」の可能性は存在しない。2)米国が北朝鮮に対して軍事行動を起こす可能性は 小さく、取るに足りない。韓国は自国を人質として運命づけられていると考えているし、 中国も 1953 年の休戦合意と中朝相互援助条約の規定から、武力衝突に引き込まれるか らである。3)北朝鮮は、技術的な問題から、米ロの基準と同レベルの核兵器を製造でき ず、旧式のソ連製短距離ミサイル・スカッドの技術を改良して使用しているので、現代 的な弾道ミサイルも製造できない。4)ロシアは、北朝鮮からの核汚染物質の拡散や、「汚 い爆弾」の製造を自国にとって危険度の高いものとは考えていない。
ロシアは北京における北朝鮮に関する 6 者協議の枠組みを支持しており、基本的にそ の存続と、北東アジアの安全保障と協力を協議する拡大フォーラムへの発展を考えてい る。しかし、以前と同様、状況に対処するだけの行動にとどめつつ、また消極的関与と いう限界を守りつつも、必要に応じて単独のイニシアティブを取るであろう。
(9) 一般的に言って、1980 年代から現在までの画期的な出来事の数々にもかかわらず、 ロシアの朝鮮半島についての戦略的思考は奇妙な一致を見せている。北朝鮮は、どうし たわけかロシアの全体的政治ロジックから抜け落ちてしまっているわけだが、ゴルバチ ョフ時代に、北朝鮮社会主義友好国であるにもかかわらず、極めて信頼できない中国 寄りの国と見られたときもそうだったし、またゴルバチョフ時代に、モスクワが世界的 軍備縮小の面で米国と対話をする中で、軍事協力の点でロシアの政策の全般的方向から 外れ始めたときもそうだった。今日、包括的安全保障に対する脅威に関する米ロ協調の 成果が、北朝鮮との関係においてモスクワが相応の論理的ステップを踏むことに繋がら なければ、またそういうことになるのである。
1990 年代の初め、共産主義国であると同時に全体主義国家でもある北朝鮮が、ロシア の民主革命の論理を支持しなかったときは、上記の一致の例外だったと見ることができ るかもしれないが、この時代にモスクワと平壌の関係が急激に悪化しており、そしてそ れは 1 つの要素として韓国との経済協力に対する過剰な期待が満たされなかったことか らも並行して引き起こされたのである。
このような矛盾が発生した原因は、ロシア政府内部の政治的意思決定システムにある。 ソビエト時代でも現在でも、ロシアは米国、ヨーロッパ、及び中央アジアを重視してお り、北朝鮮はロシアの政治、経済、及び安全保障に関しては二次的な存在でしかなかっ た。したがって、韓国もまた、ロシアの経済的関心の中心にはならなかったが、これは、 特に、急速に発展する中ロの経済協力及び東京からの新たな投資への期待を考えると注 目すべきことである。
韓国はロシアと北朝鮮の関係及び全世界での米国との関係断絶という厳しい状況と一
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体不可分であるという 1970 年代から 80 年代にかけての認識が、韓国についての戦略ビ ジョンを未だに支配している。1990 年代、当初韓国はロシアの経済発展について他国か らの影響を受けない要因として明らかな政治経済上の優先順位を与えられていたが、急 激な経済協力における相互の不満感の結果として、ロシア・韓国関係は冷却期間に入っ た。さらにその結果として、モスクワのソウルに対する戦略的興味というものも失われ たのである。プーチン時代には、韓国を北東アジアにおけるロシアの真の(しかし、主 要ではない)経済パートナーになる可能性があり、朝鮮半島問題について重要な(しか し、不可欠ではない)関係国であり、さらに、政治的に米国から独立しようと懸命な努 力を続けている(しかし、ロシアの利益には結びつかない)国であるという見方が依然 として残っていた。
概して言えば、ロシアは、過去も現在も、朝鮮半島を、自国と北東アジア地域の主要 国(米国、中国、及び日本)との関係という視点から見ているのである。そして、ロシ アの朝鮮半島に対するこうした戦略認識の様相は過去数十年のあいだ変化しておらず、 朝鮮半島方面でのロシアの行動の限界点を決定しているのはまさにこの事実だったので ある。
3 朝鮮戦争と現在の北朝鮮核危機
朝鮮戦争の結果は依然として朝鮮半島の安全保障情勢の進展を左右している。軍事面 から見れば、現在も南北は軍事的に対峙しており、両国とも経済及び社会福祉の両面か ら過重な防衛負担にあえいでいる。北朝鮮は、その因襲的な政権の安全を図るために「核 兵器カード」を弄んでいる。
政治面からすれば、朝鮮半島には通常の平和的政体は存在しない。国際法の観点から すれば、北朝鮮の韓国及び米国に対する関係は 1953 年締結の時代遅れの休戦協定に基 づいている。平壌とソウルの間及び平壌とワシントンの間に、完全な外交関係がないた めに、安全保障上の紛争の解決が妨げられている。
北朝鮮の軍事経済は、昔のスターリンに範を取ったもので、その閉鎖性から北朝鮮の 北東アジアへの経済的統合を妨げている。
ロシアは、他の 6 者協議参加国と同様、自国の安全保障及び軍事に関わる駆け引きに おいては、朝鮮戦争が残したこうした結果を考慮に入れなければならない。しかしなが ら、スターリン時代とは異なり、現在のロシアには外交面で柔軟な行動をとる余地があ る。現在のロシアは、北に対しては安全保障面または軍事面での協力者にすぎず、軍事 力によって北朝鮮を防衛する義務はない。さらに、北朝鮮核危機に対する姿勢は、細部 において多少異なる点があるにせよ、米国その他の国と本質的には同様である。すなわ
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ち、北朝鮮は、いかなる状況でも核兵器を持つべきではない、ということである。現在、 ロシアは、朝鮮半島の統一に反対していない。ロシアには、原則として、平壌とワシン トンの間で仲介の労を執る用意がある。ただし、さもなければ北朝鮮のために支出でき たかもしれない財政資源が実際には限られているうえに、北朝鮮に対する政治的影響力 はほとんどゼロであるため、モスクワは 6 者協議のプロセスにおいては消極的に見えて しまう。
しかしながら、筆者はそれがロシアにとって安易な選択であったとは考えない。なぜ なら、それがその時点でロシアに実行できる最大限のものであったからである。
それにもかかわらず、朝鮮戦争が現在の朝鮮半島の安全保障情勢に与えた影響という 視点から見ることによって、北朝鮮核危機の解決策を見出すことは可能であるというの が筆者の見解である。
第一に、前述の通り、北朝鮮は政権の安全を図る目的で核の賭けに出ている。第二に、 朝鮮半島には通常の平和的政体は存在しない。第三に、北朝鮮経済の閉鎖的で市場不在 の特質が、地域的協力関係への参入を妨げている。
そこで、6 者協議を 3 つの並行的範囲に分割することが重要であると思われる。 第一の範囲では、北朝鮮の核プログラムの技術的問題に焦点を絞る。 第二の範囲では、米朝間及び南北間に通常の外交関係を結ぶことで休戦協定を置き換
え、通常の政治的法的基盤に立った平和的政体を作り出すことを主眼とする。南北両国 は、国際法上の観点では同等の国連加盟国である以上、両国間に通常の関係を成立させ る道は完全な外交樹立である。
朝鮮半島に通常の外交基盤を形成することにより、韓国及び米国の北朝鮮に対する関 係構築の過程が容易なものになるであろう。
6 者協議の第三の範囲では、北朝鮮の経済再建が課題となる。平壌は、次回の 6 者協 議に参加するということが理由で経済援助を受けるのではなく、市場再建と経済開放の 具体的な道筋を示すことで援助を受け取るべきである。
これら 3 つの範囲での協議を通じて、現在もわれわれを苦しめている、朝鮮半島の安全 保障情勢に残る朝鮮戦争負の遺産を乗り越えることができるのである。2006 年 7 月 に行われた、最新の北朝鮮のミサイル実験により、北朝鮮核危機の展開は新たな局面を 迎えた。歴史上初めて、6 者協議参加国のうち北朝鮮を除く 5 か国(ロシアと中国を含 む)が一致して北朝鮮を非難した。ロシアと中国は、それまで国連の場で北朝鮮問題を 討議することには反対していたのだが、安全保障理事会北朝鮮非難決議に賛成したの である。
これにより、5 か国に対してそれぞれ個別のアプローチを用いてきた北朝鮮の駆け引 きを封じることができ、状況に真の進展をもたらしうる。しかしながら、5 か国すべて
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がさらに協力関係を強化し、イラン問題の場合と同じく、北朝鮮に対して単一の立場で 臨む必要がある。理論的には、これは完全に筋が通っていて正しいが、実際面で言うと、 状況はもうちょっと複雑である。5 か国すべてが、北朝鮮に対して、朝鮮戦争時代のも のではなく現在の地政学的文脈に立ってアプローチする必要性がある。
朝鮮戦争の時代、かつてロシアが朝鮮半島に政策を及ぼそうとした動機は、筆者がこ れまで証明しようと努力してきたとおり、現在のものとは大きく異なっていた。それは、 世界のグローバル化において重要な役割を果たそうとするロシアの試みとは関係なかっ た。その点では現在も同じであるが、次の世界戦争が避けられないというスターリンの 信念に照らして、さらに、「三重防衛線」構想に照らして、極東ロシアの国境線に近い米 国を封じ込めるために親ソ的な北朝鮮が独自の役割を果たすはずだったのである。
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