Tm

   
 
ヌルハチの対明関係とその展開過程について ――主として朝貢活動から見た――
は じ め に
   ヌルハチが建州女直を統一した万暦一六年(1588)以降、同四三年(1615)までのおよそ二八年間 に、計三〇次にもわたって明王朝朝貢を繰り返したことは、『明実録』をはじめとする明側史料 に徴して隠れもない事実である。万暦一六年以後、後金国の建国と明王朝からの独立が宣言される 万暦四四年まで、ヌルハチの対明関係はいくつかの段階を経過して変化したと考えられる。その間 の紆余曲折を知るためには、対明関係を如実に反映するであろう朝貢のありかた、就中その断続性 の分析が有効な視角を提供する。  にもかかわらず、従来、ヌルハチ朝貢活動を通して、その対明関係がいつ、いかなる要因に よって、どのように展開していったのか、を問う姿勢は概して稀薄であった。その理由の一端は、 朝貢という行為が名分上、華夷の峻別に立脚し、女直/女真(ジュシェン jušen)――以下、女直で 統一する――の明王朝に対する臣従と忠誠を大前提としたため、ヌルハチ本人が自ら北京に進貢し たり、朝貢使節団を派遣した事実を清朝側が忌避したところに帰される。たとえば、満文『満洲実 録』の戊子(万暦一六)年条は、ヌルハチの建州統一に続けて、その経済的背景を下記のように述 べている。
 
tere fonde daiming gurun i wanlii han de aniya dari elcin takůrame hůwliyasun doro i その時に(1)大明国の万暦帝に年ごとに使者を遣わし,平和の道をもって sunja tanggů ejehei ulin be gaime gurun ci tucire genggiyen tana, orhoda, ......hacin 五 百 道 の 勅 書 の 財 貨 を 獲 得 し, 国 よ り 産 す る 明 珠, 人 参, ...... 種 々 hacin i furdehe be beye de etume, fušun šo, cing ho, kuwan diyan, ai yang duin duka の 毛 皮 を 身 に 着 け,(2) 撫 順 所, 清 河, 寛 甸, 靉 陽 四 処 の 関 口 de hůda hůdašame ulin nadan gaime, manju gurun bayan wesihun oho.
に 交 易 し, 財 貨 を 得 て, マ ン ジ ュ 国 は 富 貴 と な っ た。  
 明王朝(中華)の視点に立つならば、文中の下線(1)が朝貢および回賜(朝貢の反対給付)、下線 (2)が互市交易に該当することは言を俟たない。『太祖武皇帝実録』(現存する最古の『太祖実録』)の 漢文本が、(1)を「与大明通好、遣人朝貢、執五百道勅書、領年例賞物」と訳出するのも、漢人の 論理からすれば当然であったが、『満洲実録』は下線部を「平和の道」(hůwliyasun doro)と表記す るだけである。この婉曲な表現がことさら選択されたのは、「貢納」(満洲語では alban jafambi)と直 書することが、「勅書の財貨を獲得」する先行要件としての臣従(とその表明)をただちに想起させ たからに相違ない。ともあれ、この記事以後、『満洲実録』に「朝貢」を仄めかす文章が再び現れ
増 井 寛 也
24306
     51

420375 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
ることはない。
 ところで、上記の引用文に見える「勅書」ejehe とは、明王朝が永楽年間(1402-1424)以降、女 直の統合防止、およびモンゴル勢力との分断を目的として、マンチュリア各地に設置した羈縻衛所 の女直人首長に発給した各級(都督・都指揮使・指揮使など)の武官辞令を指す。この勅書は朝貢入京
(と互市交易への参入)に不可欠の身分証であるため、「貢勅」とも呼称された。明王朝が建州女直と 海西女直に発給した勅書は、清初の崇徳四年(1639)に至って太宗ホンタイジの勅命によってすべ て回収焼却された(順治初纂満文『太宗実録』崇徳四年六月二二日・二五日条)ので、たまたま『満文老檔』 に伝存した所謂「ムクン・タタン表」(ヌルハチが万暦三八年に開原経由で行使を予定した旧海西ハダ国の勅 書三六三道のリスト)や、同じく『老檔』所載の「毛憐衛ランブルハン(郎孛児罕)勅書」1)を除けば、 朝貢に使用された勅書の詳細は不明である。  上述のとおり、ヌルハチ朝貢に関して清朝側の文献は意図的に沈黙し、勢い明側の文献に依拠 せざるを得ない。ところが、その主要史料である『明実録』自体、ほとんどの場合、入貢の日付と 入貢者の衛名・官職・人名(とその人物が代表する朝貢団の人数)、および型通りの迎接(「宴賞すること 例の如し」が典型的)を短く事務的に記録するに過ぎないので、ヌルハチがいかなる意図をもって朝 貢したのかを探ろうとすれば、ヌルハチ周辺の史実を勘案しながら、間接的に推論を組み立てる他 ないのが実情である。そこで本稿では、まずヌルハチ朝貢活動に観察される断続性に着目して、 万暦一六年以降の二八年間を数個の時期に区分した上で、それらが対明関係の展開過程にどう照応 するのかを検証する、という手続きをとりたい。
   
一、朝貢の断続性と時期区分の設定
(1)貢勅制と女直社会の変貌
 行論の便宜上、はじめに衛所制と貢勅制が女直社会に及ぼした影響を一瞥しておくと、おおよそ 以下のようになる2)。明王朝は永楽年間(1402-1424)と宣徳年間(1425-1435)において、羈縻衛所制 と貢勅制を一体的に運用して女直統御の実をあげるとともに、互市交易も併用して彼らの物質的欲 求を満たすことで、モンゴル勢力との結合を防止した。ところが、やがて入貢者数の急増に起因す る支出の膨張に悩まされ、正統年間(1435-1449)から天順年間(1457-1464)にかけて朝貢人数に制 限を加えた。その結果、一年あたりの入貢者数は、建州女直が四百人(建州三衛各百人と毛憐衛百人)、 海西女直が毎衛所各五人に抑制された。しかるに、女直はあらゆる対抗手段を尽くして制限枠を突 破しつつ、不正勅書の使用と勅書の不正使用によって利益拡大を企てた。  再び入貢者数の増大に直面した明政府は、嘉靖一六年(1537)から同二〇年(1541)のある時期 に至って、毎年の入貢者数を海西女直全体で一千人(使用勅書一千道)以内、建州女直全体で五百人
(使用勅書五百道)以内に制限した。この新たな朝貢制限体制は所定人数さえ超過しなければ、もは や衛所の別を問わず、しかも女直産物(貂皮・人参など)に対する需要は白熱化の一途をたどったか ら、強豪による貢勅(=朝貢権・交易権)の兼併を不可避的に発生させた。こうして勃興した豪族(ア ンバン amban)は集積した貢勅の分配権を介して、配下を統制する実質的基盤を掌握した。ここに 明の貢勅制は期せずして、女直社会における地域権力形成の骨格となったのである。  かかるアンバンたちを糾合して登場した勢力が、海西女直では開原の近地に勃興したハダ
52

hada・イェヘ yehe 両国のハン han やベイレ beile(王に相当する称号)らであり、勅書一千道は両国 によって分割された。一方、建州女直にあっては、撫順東方に興起したヌルハチが群雄を制し、万 暦一六年に建州配当の貢勅五百道を独占する。それは建州女直の実質的な統一、すなわちヌルハ チ政権=マンジュ国成立の貢勅制的表現であった。ヌルハチ(称号スレ=ベイレ sure beile)――後に sure kundulen han(1606),sure genggiyen han(1616)の尊号を奉呈される――はそれ以来、万暦 四三年に至るまで、毎年のように朝貢団を北京に派遣するのみか、自身も朝貢団を率いて幾度と なく本拠のフェ=アラ城(万暦三一年以降はヘトゥ=アラ城)と北京を往還し、朝貢貿易と互市交易に よって致富に邁進することになる。
 
(2)後金建国前におけるヌルハチ朝貢活動
 本稿での考察に資すべく、下記〔ヌルハチ朝貢活動一覧〕を作成する。この一覧表は万暦一六 年から同四三年に至る建州女直(毛憐衛を含む)の朝貢を『明実録』3)を中心に網羅するとともに、 各年度に対応するヌルハチ関連の重要史実を対照併載したものである。
ヌルハチ朝貢活動一覧〕
243046
 万暦年・月・日
15 16・11・癸丑/ 4
建州女直入貢年表
礼部題、建州衛女直夷人都督指揮阿 台等一百五十七人朝貢。賜宴如例。
西暦年・月
1587   ?
ヌルハチ関連大事年表
フェ=アラに居城を築く。
この年、建州女直を統一(=マン ジュ国)、建州配当勅書 500 道制覇。
ハダ国のアミン = ジェジェを娶る。 イェヘ国のモンゴジェジェを娶る。
長白山部ヤルギャン路を攻取る。
海西イェヘ国がハダ・ホイファ二国 を誘って、割地か服従を要求するも、 これを峻拒する。
遼東総兵官李成梁(任 1570-)が解 任される。
    16・10・丙申/16
     礼部題、建州衛女直夷人都督松塔等 一百五十四人赴京朝貢。賜宴如例。
               17・ 5 ・己未/13
19・ 7 ・癸酉/10
建州等衛女直野人差阿台等進貢。
宴建州等衛女直夷人都督小童等 八十二員名如例。
1588
9
1591   1 ?
11
1589   9
4
建州衛都指揮使から都督僉事に陞叙 される。
           18・ 4 ・庚子/29
18・ 5 ・乙巳/ 5
建州等衛女直夷人 等一百八 員名進貢到京。宴賞如例。
   建州等衛夷人都督都指揮松塔等 九十七名赴京進貢。賜宴如例。
奴児哈赤
1590
          18・ 7 ・庚申/21
建州左等衛女直夷人都督都指揮馬哈 塔吉等進貢。宴賞如例。
            19・10・戊戌/ 6
建州衛女直夷人進貢。
               20・ 8 ・壬寅/15
建州等衛夷人松塔等赴京朝賀。命宴 賞如例。
1592   4
一路漢城へ北上。
日本軍、釜山上陸(壬辰戦争開始)、
    20・10・丁酉/11 建州等衛進貢夷人都督指揮馬哈哈吉 (馬哈塔吉 ?)等九十八名赴京進貢。
賜宴如例。
7 8
9
加藤清正の「オランカイ征伐」
明廷に龍虎将軍号を要請し、かつ朝 鮮による女直人殺害を訴える。
明・兵部が遼東都司を介して朝鮮に
            移咨し、ヌルハチに朝鮮救援の意図
  ありと打診。
   53

420373
ヌルハチの対明関係とその展開過程について
 万暦年・月・日
21・閏11・丁亥/7
申/23?)
23・ 8 ・丙寅/26
23・ 8 ・己巳/29
23・ 9 ・辛未/ 2
23・ 9 ・己丑/20
23・10・戊辰/29
25・ 5 ・甲辰/14
26・10・癸酉/21
27
(30・6・戊申/18)
31
建州女直入貢年表
建州衛女直夷人奴児哈赤等赴京朝 貢。上命宴賞如例。
毛憐等衛夷人都督都指揮伏羊古等 九十九員名赴京進貢。賜宴賞。
建州等衛女直夷人 等赴京朝 貢。命如例宴賞。
宴建州等衛夷人少童等九十九名。
宴毛憐等衛貢夷尚加禿等。
宴毛憐等衛夷人尚加禿等九十九名。
建州左等衛都督等官馬哈塔吉等一百 名、赴京進貢方物。宴賞伴送如例。
建州等衛都督指揮 等一百員 名進貢方物。賜宴賞如例。
西暦年・月
1593   3 6
9
10 閏11
1595   6 10
11 12
   ?
1597   1 2
1598   1 2
11
1599   1 9
1601   7 8
11 ?
1603   ?
ヌルハチ関連大事年表
日明が停戦交渉を開始。
海西四国(イェヘ・ハダ・ウラ・ホ イファ)がフブチャ寨に来襲。
海西四国等の九国連合軍が大挙襲 来、これをグレ山に撃破する。
長白山部のジュシェリ路を攻取る。
長白山部のネイェン路を攻取る。
ホイファ国のドビ城を攻取る。
採参女直人殺害事件につき、明の遊 撃胡大受(平壌駐留)が部下と朝鮮 の通事河世国をフェ = アラに派遣し て説諭する。
建州の使者馬臣が満浦に到着。
朝鮮の答礼使申忠一がフェ = アラに 赴き、内情探査にあたる。
明朝廷から龍虎将軍号を獲得。
海西四国と講和し、通婚を誓約。 前年九月の日明講和交渉決裂によ
ワルカ部のアンチュラク路を攻取る。
ヌルハチ、経略禦倭兵部尚書邢玠に 日本軍討伐の意思を表明。
日本軍の半島撤退、壬辰戦争終結
東海フルハ部がはじめて来貢。
ハダ国を攻め、国主メンゲブル以下、 国人をフェ = アラに拉致する。
明の要求によりハダ国を再興する も、ほどなく再びこれを併合する。
李成梁、遼東総兵官に復職(→鉱税 太監高淮と結託)。
ウラ国のアバハイを娶る。
三百人制ニルを施行する。
ヘトゥ = アラに遷居する。
                 21・12・乙丑/16
毛憐等(衛)女直夷人伏羊古等 九十九員名来朝貢。宴賞如例。
       毛憐等衛夷人失剌卜等一百員名進貢 到京。宴賞如例。
速児哈赤
モンゴルのホルチン部とハルハ五部 が遣使通好。
                           24
(奴児哈赤)附貢夷奏、益盛称總五 十三酋、捍虜労苦、乞折賞。(『東夷 考略』建州攷)
1596
    奴児哈赤
 り、日本が朝鮮再派兵を決定する
          25・ 7 ・戊戌/9
建州等衛夷人都督都指揮   等 一百員名、納木章等一百員名、倶赴 京朝貢。賜宴如例。
速児哈赤
(壬辰戦争再開)。
      宴建州等衛進貢夷人 等。
奴児哈赤
                              28
1600   4
メンゲブルを誅殺し、一旦ハダ国を 滅ぼす。
         29・8
(奴児哈赤)与那林孛羅各(請)補 双貢。(『東夷考略』建州攷)
       29・12・乙丑/2
宴建州等衛貢夷   等一百九十 九名。
奴児哈赤
  奴児哈赤
   去歳(万暦 29 年)建州 進二貢。

   30・ 3 ・丙寅/ 4
  宴建州左等衛貢夷馬哈哈(馬哈塔 吉?)等一百名。
      1602
      54
21・12・壬辰(壬
         22・正・己酉/30
1594   1
  
243026
 万暦年・月・日
32・ 5 ・甲戌/24
建州女直入貢年表
宴建州等衛進貢夷人三百九十九名。
西暦年・月 ヌルハチ関連大事年表
         1604  
? 李成梁らが「駆民棄地」(-1605)を 実施する。
9 モンゴジェジェが病没する。
1 イェヘ国のジャン、アキラン二城を 攻取る。
       32・ 6 ・乙未/16
建州毛憐等衛夷人都督台失等一百 名、進馬二百匹、補二十二、三年分 貢。給双賞絹鈔等如例。
          34・12・戊戌/ 4
建州衛都督都指揮   等入貢。 (『国榷』)
速児哈赤
1606   8
8 12
「駆民棄地」が逃民招回の功績とし て上聞され、李成梁らに加えヌルハ チも賞賜に与かる→「棄地啗虜」事 件の発端となる。
ヌルハチが人参売価の吊上げと車価 の増額を強要し、辺吏が倉皇として 増兵を要請する。
ハルハ五部がクンドゥレン = ハンの 尊号を奉呈する。
                     35
36・ 3 ・丁酉/10
36・ 3 ・乙巳/18
礼部(侍郎楊道賓)言、「......近遼 東鎮撫官会題本内、有奴酋不肯進貢 了、搶了罷等語。......」
大学士朱賡等言、「建酋桀驁非常、 ......恃強不貢已経二年。又勒買参斤、 多索車価。......」
建夷   入貢。(撫順関を通過 した時点を指す)
1607  
1608  
3 ワルカ部のフィオ城に出兵。その帰 路、ウラ軍を烏碣岩で大破する。
5 ウェジ部のヘシヘ等三路を攻取る。 9 ホイファ国を滅ぼす。
3 ウラ国のイハン = アリン城を攻取る。
5 内閣大学士の李廷機がヌルハチに対 して車価減額を私講したとして、弾 劾が始まる。
           36・ 3 ・辛亥/24
 36・ 9 ・辛卯/ 7
諭兵部、「......其遼東建酋不思国恩、 不遵貢典、招亡納叛、意欲何為。地 切陵京。豈容如此怠忽。......」
 奴児哈赤
          36・ 9 ・辛卯/ 7
得旨、「補貢夷人、兵部行文遼東鎮 撫官、査明放入、如有呑幷冒頂領賞、 不許混進。」
       36・ 9
奴児哈赤混入南関勅三百六十三。 (『東夷考略』海西攷)
       36・12・乙卯/ 2
頒給建州等衛女直夷人 ・兀 勒等三百五十七名貢賞如例。
奴児哈赤
         36・12・甲戌/21
頒給建州右等衛女直夷人   等 一百四十名貢賞如例。
速児哈赤
   37・ 2 ・甲寅/ 2
時建州夷人朝見、有火哈等二名出班 次、衝御道、投擲印文一紙、詞極謾。 大略言、彼疆界九百余里、以新立碑 碣為巻案。......其意為阻撓勘地者。
6 「棄地啗虜」事件に対する弾劾が始      ま る→李成梁・趙楫の罷免、高淮の
北京召還に発展。 遼陽副将らと分界碑を立て、越境侵 犯の禁止を相互に誓約する。
11 巡按都御史熊廷弼が「棄地啗虜」事 件の調査に派遣される。
1609   1 奸細(間諜)を遼西に放つ。
3 同母弟シュルガチを幽閉、二頭体制
清算する。
マングルタイ
5 莽骨大(嫡三子)を派遣して南関
     (ハダ)の旧寨を修築する。
             55

420371
ヌルハチの対明関係とその展開過程について
 万暦年・月・日
38・ 5
38・?
建州女直入貢年表
奴児哈赤差火真禀験貢本、願去車価、 減貢夷、退還地界。(『全辺略記』巻 10・遼東略)
時不許貢者二年矣。其人参浥爛、至
十余万觔。奴(奴児哈赤)亦窘。 (『武備志』巻 228・女直考)
西暦年・月
1610   2 11
12
1611   7
8 12
1613   1 3
9
?
1614   3
5 11
ヌルハチ関連大事年表
 ウェジ部のフイェ路を攻取る。
ウェジ部のナムドゥル等四路を従属 させる。
 ウェジ部のヤラン路を攻取る。
ウェジ部のウルグチェン路、ムレン 路を攻取る。
 シュルガチが病没する。
 フルハ部のジャクタ路を攻取る。
ウラ国を攻滅する。
ハダ国故地の開墾を明が阻止し、撫 順・清河での和糴も禁止する。
庶子バブハイを質子として差し出す も送還される。 イェヘ国の大小一九城を攻取り、明 の詰責を受ける。
建州域内の空地に屯田し、穀物増産 に励む。
ハダ国故地の開墾を再開するも、明 が中止を説諭する。
「退地定界」を受諾する。 ウェジ部のヤラン・シリン両路に派兵。
 この年、八旗制を創始する。
(翌 1616 年正月、ゲンギェン=ハン に即位建国、国号後金)
           9
   フルハ部のニングタ来襲を撃退す る。
                39・ 6 ・丁亥/19 (奴酋)近日叩関甚切、求貢甚急。 諭之撤車価、則撤。諭之減人数、則
減。雖似順服、豈無深情。
       39・ 6 ・(丁酉/ 29)
科(臣)議、則請釈建州為外懼、姑
置侵地、先許貢、敉寧東方。...... (兵)部覆、如科臣言。(『東夷考略』
建州攷)
       39・10・戊寅/12
頒給建州等衛補貢夷人   等二 百五十名各双賞絹疋銀鈔。
奴児哈赤
           40
1612   9
ウラ国に出兵し六城を攻取り、駐屯 軍を残して撤兵。
      41
42
                          宴建州等衛夷人。
1615
          43・ 3 ・丁未朔
兵部以建州・海西夷人進貢上聞、 ......(奴酋)此番進貢、止大針等 十五名。
    56
43・ 2 ・乙未/18
備考:〔建州女直入貢年表〕欄の典拠は、特に注記しない限り『明実録』である。また、ヌルハチ(奴児哈 赤)と同母弟シュルガチ(速児哈赤)の入貢には網掛けを施した。
  :明らかに同一の入貢例は〔入貢年表〕[年月日]欄の日付に網掛けを施した。   :〔ヌルハチ関連大事年表〕の主たる典拠は『満洲実録』、『明実録』、『東夷考略』、閻崇年『努爾哈赤
伝』1983 巻末の「努爾哈赤年譜」などであり、壬辰戦争に関しては北島万次『豊臣秀吉朝鮮侵略
1995 を参照した。   :同じく〔大事年表〕[西暦年・月]欄の[?]は月次不明を示す。   :〔大事年表〕の下線部は「壬辰戦争」関連の事項であることを示す。

(3)ヌルハチ朝貢活動――その特色と時期区分――
 上掲〔建州女直入貢年表〕(以下〔入貢年表〕)を通観するとき、ヌルハチの対明朝貢は概ね毎年基 調で実施されながらも、三つの顕著な傾向によって特色づけられることが分明する。特色の第一は ヌルハチが余人に委ねず、本人自ら北京に進貢した年度が一再ならず記録される事実であり、後述 するように結論的には以下の七次を数える。
 
(1)万暦一八年  (2)万暦二一年  (3)万暦二五年  (4)万暦二六年 (5)万暦二九年  (6)万暦三六年  (7)万暦三九年
 
 生涯を通じてスレ sure(満洲語で「聡明な」を意味する)を冠して称されたほど、明敏で抜け目のな いヌルハチが、単に明王朝への忠誠を表明するためだけに、直々に入京したとは到底信じ難い。そ こには他ならぬヌルハチ本人による忠順表明を必要とする理由、もしくは忠順表明以上に切実な理 由があったと看做すべきである。  特色の第二は、ヌルハチ朝貢活動全体を通じて、下記のような中断(二ないし三年連続の中断
(1)・(3)・(4)、および隔年の中断(2)が観察される事実である。  
(1)万暦二七・二八年  (2)万暦三一・三三・三五年  (3)万暦三七・三八年 
(4)万暦四〇・四一・四二年  
 人参の保存法を発明したほど商魂たくましいヌルハチが、互市交易と並ぶ商利獲得の機会である 朝貢 4)を断念した背後には、そうした事態を招いた、対明関係をめぐる何らかの不調や障害があっ たと考えられる。まして朝貢の本質が明王朝に対する義務化された臣従儀礼である以上、その中断 ないし不履行はなおさら重視されねばならない。  特色の第三は、朝貢の中断、ことに万暦二七・二八年、万暦三一・三三・三五年、万暦三七・ 三八年の各中断期間が、ヌルハチ本人の進貢入京(万暦二九・三六・三九年)によって終止符を打た れるのみか、そのどれもが性質上「補貢」を名目としたという事実である(〔入貢年表〕の該当年度参 照)。こうした現象は、第一・第二の特色に関する上記の認識が失当でない限り、対明関係の不調 が修復ないし緩和された結果であると再解釈し得る。万暦四〇・四一・四二年の朝貢中断に対する 同四三年の朝貢も、ヌルハチ本人の補貢に準じて理解可能だとすれば、朝貢の中断とヌルハチ本人 の補貢を指標として、以下に提示したような時期区分が成り立つであろう。  なお、各年度のうち、網掛けは朝貢が中断した年度、囲みはヌルハチ本人が朝貢した年度、修飾 のないものはヌルハチが配下(シュルガチを含む)を朝貢使節として派遣した年度をそれぞれ示す。ま た、年度の右肩に付したアラビア数字は、当該年度に複数回(2 ~ 4 回)の進貢があったことを示す。  
第I期 万暦一六 2・一七・一八 3・一九 2・二〇 2・二一 2・     二二・二三 4・二四・二五 2・二六年 第II期 万暦二七・二八・二九年 第III期 万暦三〇・三一・三二2・三三・三四・三五・三六2 年
243006
  57

420279 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
  第IV期 万暦三七・三八・三九年
  第V期 万暦四〇・四一・四二・四三年
 
 問うべきはこの時期区分と対明関係との相関性であり、以下の論述はその当否を具体的に検証す ることを目的とするが、時期区分の前提としてまずヌルハチ本人の進貢入京年度を明示しておかね ばならない。この問題を専論した閻崇年氏は『明実録』・『国榷』を根拠に、ヌルハチ自身の北京入 貢を1万暦一八年四月庚子、2万暦二〇年八月丁酉、3万暦二一年閏一一月丁亥、4万暦二五年五 月甲辰、5万暦二六年一〇月癸酉、6万暦二九年一二月乙丑、7万暦三六年一二月乙卯、8万暦 三九年一〇月戊寅の計八次と結論する5)。ただし、2に関する下記『明実録』の文面を見る限り、 これをヌルハチ本人の朝貢と断ずべきか否か、多分に疑問が残る6)。
 
・建州衛都督奴児哈赤等奏文四道。乞陞賞、職銜、冠帯、勅書。及奏高麗殺死所管部落五十余
名。命所司知之、并賜宴如例。 ・建州等衛都督等官奴児哈赤等進上番文。乞討金頂大帽、服色、及龍虎将軍職銜。下所司議行。
〔内閣文庫本〕 番文=モンゴル文(満文の創製は万暦二七年)  
 閻氏は下線部に着目して朝貢の証左と主張するけれども、これらの対照から判明するのはヌルハ チが奏文を進上したことにとどまり、奏文それ自体は万暦二〇年派遣の朝貢使節に託されたもので あったという見方も十分あり得る。  なお、上記の入京年度とは別に、『国榷』万暦四三年三月丁未朔条に
 
  建州海西衛奴児哈赤等入貢。建州日強、毎入貢千五百人。横索車価、殴駅卒。当事裁之、令在
  辺給賞。至是止十五人。
  とあり、ヌルハチの進貢入京を明記する。この入京について、閻氏は同じ日付の『明実録』が大針 ら一五名の入貢を記すにとどまり、ヌルハチの名を欠くこと(〔入貢年表〕)、また万暦四三年三月時 点でヌルハチがヘトゥ=アラにいた裏づけが複数あることをもって、ヌルハチ本人の入京はなかっ たと説いており7)、そこに異論を差し挟む余地はない。  結局のところ、2の入京問題が未解決のまま残るわけであるが、追って立証するように筆者は2 を除外する立場を採るので、さしあたりヌルハチ本人の入京は1345678の計七次であったと 理解しておきたい。
 
    
二、ヌルハチ朝貢活動と対明関係の展開―前期―
第I期:万暦一六-二六年
 朝貢の頻度と密度に照らして、この時期を性格づける特徴はヌルハチの明に対する鮮明な臣従姿 勢でなければならない。ヌルハチは万暦一六年に最初の朝貢団を派遣して以来、同二六年までの 一一年間に二一次もの朝貢を繰り返し、全朝貢回数の実に三分の二を占める。のみならず、この時
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期は一年間に複数回の進貢を記録した全九ヶ年中の七ヶ年、ならびにヌルハチ本人が北京に進貢し た全七ヶ年中の四ヶ年が集中する。  さて、ヌルハチ本人が最初に入京した万暦一八年は、前年の万暦一七年九月に実現した都督僉事 陞職に鑑みて、謝恩を含意したことは疑いを容れない。以下、『三朝遼事実録』(首巻総略・建夷)の 記述を通じて、ヌルハチの陞職に至る背後事情を説明しよう。
 
(1)(万暦)十七年、建州夷酋奴児哈赤以姻歹商、先入貢。且以斬叛夷克五十、乞陞賞。加都
督秩、以此遂雄長諸夷。(2)奴(=奴児哈赤)、姓佟、建州枝部也。先是李寧遠(=寧遠伯李成梁) 擣阿台、夷其巣。奴児哈赤祖叫場、父塔失並従征、......因兵火死于阿台城下。......(成梁)虜 各家勅書無所属、悉以属奴。奴雖得王杲勅、人多不服。乃結婚北関、以資其勢。勢漸強、事中 国頗恭勤。後稍蚕食張海・色失諸酋、及与歹商争張海、因約婚罷兵。
   この文章は文脈上、(1)と(2)に区分され、(2)は(1)の説明部分に相当する。(1)によれ ば、ヌルハチは万暦一七年、女直人が望み得る武官最高位の都督職(厳密にいえば都督僉事)に陞り、 これを端緒として「遂に諸夷に雄長」となるに至る。ヌルハチは万暦一六・一七年に朝貢団を派遣 し(〔入貢年表〕)、都督僉事陞職までに着実に実績を積み上げていた。ここに父祖の貢献(下記)と叛 夷克五十の捕斬が加味されて、明朝廷はヌルハチの都指揮使から都督僉事への陞職を承認したので あった。  (2)はヌルハチ抬頭の背景を説明する。まず入貢に必要な勅書の獲得事情はつぎのとおりであっ た。万暦一一年に遼東総兵官の李成梁がアタイ(王杲の子阿台)を討滅した際、嚮導として協力した ヌルハチの祖父ギョチャンガ(叫場)と父タクシ(塔失)が戦闘の巻き添えになって誤殺された代償 として、李成梁が王杲旧有の勅書(『東夷考略』「建州攷」は二〇道、『満洲実録』は三〇道とする)をヌル ハチに授与したのだという。一説によれば、ヌルハチが都指揮使に叙任されたのもこのときであっ た(『清皇室四譜』)。かくて勅書を得たものの、なお「人は多く服さず」、そこでヌルハチは「北関
(イェヘ国)と結婚し、以て其の勢に資し」た。当時海西随一の強国イェヘから妻(モンゴジェジェ) を迎えたことは、海西の下風に立つ建州「夷酋」たちに対する威信誇示に大きく役立ったであろう。  「勢漸く強く」なって建州「夷酋」の一角に登場したヌルハチは、「中国に事えて頗る恭勤」な姿
勢を堅持しながら、建州勅書の兼併を進め、遂に全五百道の制覇を達成する。その過程でヌルハ アンバン
チは建州諸酋を蚕食し、ジャハイ(張海)なる一豪族の帰属をめぐってハダ国(南関)のダイシャン (歹商)と争う。ハダ国擁護の立場から明が仲裁に入ると、「恭勤」なるヌルハチは和解提案を受け
入れ、ダイシャンの妹アミン=ジェジェ(安明姐)を側室に迎えて矛を収めた(万暦一六年)。  以上見るごとく、勃興初期のヌルハチにとって、明王朝への恭順がもたらした武官最高位の都督 職と朝貢(および互市)の利権は、自らの権力と権威を確立していく上で、紛れもなく最大の政治的 経済的資本であった。  万暦一八年の入京がヌルハチ一個人の陞職に関連したのに比して、万暦二一・二五・二六年のそ れは背後に対外情勢の激変が存在した点で決定的に相違する。〔ヌルハチ関連大事年表〕(以下〔大 事年表〕)と対照すればただちに分明するように、三次に及ぶヌルハチ本人の入京は、豊臣秀吉が発 動し、朝鮮・明を巻き込んだ「壬辰戦争」(1592-1598)8)とまさしく並行していた。
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42027 ヌルハチの対明関係とその展開過程について ケースンボム
 壬辰戦争とヌルハチの関係を多角的に考察した桂勝範氏は、古くは稲葉君山(岩吉)が提唱して 以来、「明と朝鮮が戦争に縛られ、結果的に倭乱はヌルハチに成長の機会を与えた」9)という言説 が、実証的な裏づけを欠くままに広く受容されてきたと批判する。ここから出発して桂氏は「ヌル ハチが倭乱の期間中、実際にどれほどその勢力を膨張させ成長したのか、また、それが倭乱と前後 する時期と比べて、どの程度の差異と重要性を持つのか」10)を検討した結果、壬辰戦争以前と以後 においてヌルハチ勢力の膨張が比較的活発であったのに反して、戦争中のそれは不活発であり、戦 闘があったとしても、性質上防禦的であったという意外な結論に到達する。  この点に関する桂氏の所論を、〔大事年表〕11)に即して、やや詳しく解説してみよう。建州女直 を統一した翌年の万暦一七年(1589)、ヌルハチの軍事的膨張は一旦停止し、万暦二一年(1593)九 月に新興マンジュ国の撃滅を期して攻め寄せた海西フルン四国(イェヘ・ハダ・ウラ・ホイファ)とホ ルチン部等の九国連合軍三万をフェ=アラ西方のグレ山に迎え撃ち、これを大破する。にもかかわ らず、ヌルハチは勝利に乗じてフルン四国に積極的な反攻を試みるどころか、万暦二六年(1598) までは長白山部やワルカ部に対する小規模な派兵とそれら部衆の徙民に終始する。  しかるに、万暦二七年以降、ヌルハチは俄然膨張政策を再開し、万暦四一年(1613)まで続行す る。すなわち、フルン四国のハダ・ホイファ・ウラ三国を順次滅ぼす一方、ワルカ、ウェジ、フル ハなど東海諸部に対する頻繁な派兵と徙民を進展させる。以上の推移を換言すれば、マンジュ国の 軍事的膨張には万暦一八 - 二六年(1590-1598)の休止期間が観察され、奇しくも壬辰戦争の継続期 間と一致する。  かりに壬辰戦争が「ヌルハチに成長の機会を与えた」のなら、ヌルハチが当該戦争中、かえって 軍事的膨張を抑制したように見えるのはなぜか。問題の期間中、マンジュ国の北方には海西フルン 四国がなお健在であり、南方の朝鮮半島には日本軍と明の朝鮮救援軍が交戦、対峙していた。かか る局面において膨張政策を続行することは無謀に近く、むしろ慎重な情勢分析と対外関係の安定こ そが急務とされたであろう。たとえば〔大事年表〕から摘記すると、ホルチン部・内ハルハ五部 といったモンゴル勢力との通好(1594)や、明への忠勤(頻繁な朝貢、被擄漢人の送還、辺境の保安)と それに伴う栄爵龍虎将軍号の獲得(1595)、採参女直人の殺害事件を契機とする朝鮮との外交折衝
(1592-95)、宿敵海西フルン四国との和睦(1597)などは、その努力の表出に他ならない。  こうしたヌルハチの行動と相反するかに見える現象が、壬辰戦争が勃発した万暦二〇年の九月 と、壬辰戦争が再開した翌年(万暦二六年)の二月、二度にわたってヌルハチが明を介して朝鮮に、 数万人規模の援軍を派兵し、日本軍を征討したいとの意思を打診したことである。いずれの救援表 明も、国難の上に国難を重ねるのみと判断した朝鮮側の拒絶に遇い、実現するには至らなかった。 桂氏の見解では、二回の提案ともヌルハチが「真剣に派兵の意思を伝えたというよりは、自らの実 力を誇るための外交的ジェスチャー」12)と評価される点で大差はなく、事実、当時のヌルハチは精 兵数万人を苦もなく派兵し得るだけの軍事力を保有してはいなかった 13)。  以上、本稿と関連する範囲内で桂氏の見解を要約してみた。同氏の鋭い着眼と周到な分析から導 かれた結論に賛意を禁じ得ないものの、壬辰戦争中におけるヌルハチ朝貢活動は「明との友好増 進を図って朝貢の使臣を定期的に派遣し」、壬辰戦争再開後には「自ら直接朝貢の使臣を率いて北 京を二度も訪問した」14)と評価されるに過ぎず、ことさらヌルハチの意図を探ろうとする姿勢は看 取されない。しかしながら、ここで問題としている三次の入京が、第一に壬辰戦争の交戦期間とま
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さしく重複しただけでなく、第二に万暦二一年の入京が壬辰戦争勃発と第一次派兵提案の翌年、同 二五年の入京が壬辰戦争再開の直後、同二六年の入京が第二次派兵提案の翌年にそれぞれ位置し、 第三に万暦二五・二六年はヌルハチ本人の入京が連続した唯一の年度であること、これら三点を総 合的に勘案すれば、ヌルハチの入京は明への忠順誇示にとどまらず、北京中央の動向を通じて戦争 の帰趨を自身の目で探ろうとする意図に発したと見て誤らない 15)。  とするなら、朝鮮派兵提案にも「ジェスチャー」以上の意味を読み取るべきではあるまいか。そ もそもヌルハチの第一次派兵提案は、朝鮮と隣接する建州もいずれは日本軍に侵犯されるに相違な いという危機感に由来しており、それが強ち杞憂でなかったことは加藤清正が長駆、豆満江流域
(朝鮮東北辺境)のワルカ部に侵入した、所謂「オランカイ征伐」(万暦二〇年七月末-八月末)によって
も明らかであろう。また、なるほど数万人規模の援軍派遣は誇大な主張であったにせよ、ヌルハチ ヌルハチ
麾下の最精鋭を明の禦倭副総兵李如梅(李成梁の第五子)が「此の賊(老羅赤)の精兵は七千にし て、帯甲する者は三千なり。此の賊七千は倭奴十万に当るに足る」(『李朝実録』宣祖三一年[1598]二 月戊午条)と評した事実は、ヌルハチと縁の深い李氏一門の発言だけに軽視できない。  このように派兵提案は、それなりの動機と軍事的裏づけがないわけではなかった。とはいえ、後 述するように万暦二〇年当時、イェヘ国を筆頭とするフルン四国の脅威にさらされていたヌルハチ は、自衛を最優先せねばならず、朝鮮派兵どころではなかったことも確かである。そこで注目され るのが荷見守義氏の説得的な見解であって、ヌルハチは派兵提案によって明の歓心を買い、もって イェヘ国牽制に利用したと主張する16)。  あわせて付言すれば、万暦二一年の入京がグレ山での大勝後に、また同二五年・二六年の入京が フルン四国との和睦成立後に、それぞれ記録されているように、ヌルハチはフルン四国に対する軍 事的優勢と緊張緩和を背景に、安んじてフェ=アラを留守にし得たのであった。こうした相違を考 慮すれば、第二次派兵提案は客観的に見て、第一次提案に勝る実現可能性を有したと評価し得る。  
第II期:万暦二七-二九年
 万暦二六年まで表向き明に対する恭順姿勢を貫いたヌルハチは、万暦二七・二八年の朝貢中断を 経て第五次入京(万暦二九年)の挙に出る。朝貢中断を含むこの三年間は、〔大事年表〕に対照して、 時期的にちょうどヌルハチのハダ国併合と重複する。ハダ国の併合に至る経緯は、やや時期を遡っ てヌルハチと海西フルン四国、特にハダ・イェヘ両国との関係から説き起こす必要がある。  ハダ国(南関)は明の厚い信頼を後ろ盾に、ワン = ハン時代に海西四国のみか建州北部にも覇を 唱え、三〇年におよぶ遼東東部辺境の安定に貢献した。しかるに、その晩年、イェヘ国(北関)の チンギャヌ・ヤンギヌ兄弟の巻き返しに苦悩し、憂憤のうちに没する(万暦一〇年)。後を継いだワ ンの長子フルガンが一年を経ずして他界すると、政権はメンゲブル(ワン第六子)、ダイシャン(フ ルガン長子)、カングル(ワン庶子、万暦一六年病没)の鼎立に委ねられた。求心性を失ったハダ国はま すます衰退し、これに乗じてイェヘ国が一段と攻勢を強めることになる。明軍はチンギャヌとヤン ギヌを開原に誘殺してハダを救援するが、チンギャヌ長子ブジャイとヤンギヌ次子ナリンブルのも とで勢力を挽回した。そこで、万暦一六年、李成梁はイェヘ国本拠を攻撃し、海西勅書一千道の均 分を条件にハダ国との和解を取りつけるのであるが、所詮は一時を糊塗したに過ぎなかった。  ブジャイとナリンブルは当初、メンゲブルとカングルを懐柔し、謀略によってダイシャンを除い
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420275 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
た。『三朝遼事実録』は前掲の記事に続けて、以下のようにいう。  
越二年(=万暦十九年)、歹商死。先是卜寨亦以女許歹商。那林孛羅妻、則歹商姉也。......歹商 往卜寨受室。因過視姉。中塗、那・卜二酋陰令部夷擺思哈射歹(=歹商)殪。......事在十九年 正月。時奴児哈赤妻明安姐方帰、哭兄歹、亦為卜寨所擄取。索之再三、不与。転開原為代索、 亦不与。於是奴与北関絶。
   
 ブジャイ(卜寨)・ナリンブル(那林孛羅)が、ブジャイの娘を娶りにイェヘ国を訪れたダイシャ アミンジェジェ
ンを謀殺したのが万暦一九年正月であるから、ヌルハチの妻明安姐(正しくは 安 明 姐 )が兄ダイシャ ンの弔いに本国に帰った際にブジャイに劫掠された事件は、正月ないしその後間もなく発生したは ずである。ヌルハチは妻の身柄を再三イェヘに要求するが拒絶され、開原当局を介した交渉も徒労 に終わり、イェヘ国との関係は決定的に悪化した 17)。これまた万暦一九年か、遅くとも二〇年にか けての時期であろう。同じ万暦一九年、反ヌルハチの急先鋒たるイェヘ国は、ハダ国主のメンゲブ ル、ホイファ国主のバインダリと語らい、共同でヌルハチに対して割地に応ずるか、服従せよと 迫ったものの峻拒に遭い、双方の緊張が極度に高まりつつあった。  万暦一九-二〇年の情勢は、おおよそ以上のようなものであった。フルン四国との対立は、万暦 二一年の六月と九月、遂に武力衝突に発展する。ことに九月に発生したグレ山の決戦では、彼我の 戦力差を覆してヌルハチが大勝を博したばかりか、総帥の一人ブジャイまでも討ち取った。意気阻 喪したイェヘ国は鳴りを潜め、露骨なヌルハチ敵視策の修正を迫られる。軍事的緊張が現実の武 力衝突に発展したこの時期に、ヌルハチが本拠のフェ=アラを留守にして入京できるはずもなく、 よって件の万暦二〇年はヌルハチの入京年度から除外されねばならない。対する翌万暦二一年の入 京はグレ山の決戦に勝利した直後にあたり、ヌルハチは後顧の憂いなく意気揚々と進貢に臨んだこ とであろう。  翻って思うに、万暦二〇年にヌルハチが入京しなかったとすると、一体だれがヌルハチの奏文を 明朝廷にもたらしたのであろうか。どうやらそれはヌルハチ配下の貢夷馬三非(馬三飛)であった らしく、『東夷考略』「建州攷」は第一次朝鮮派兵提案にふれて、
 
後三年(=万暦二十年)、倭陥朝鮮。中朝徴兵檄如雨。貢夷馬三非称、「建州与朝鮮錯壌。奴酋忠 義、控弦数万、可檄征倭報効。」不果。
  と記述する。馬三非のより詳細な発言内容が『李朝実録』宣祖二五年(万暦二〇年)九月甲戌(一八 日)条に見える。
 
上御便殿、引見大臣・備辺司堂上。......韓応寅(工曹判書)曰、「......兵部令遼東都司移咨、有 曰『今拠女真建州貢夷馬三非等告称、“本地与朝鮮界限相連。今朝鮮既被倭奴侵奪、日後必犯 建州。奴児哈赤部下原有馬兵三四万、歩兵四五万、皆精勇慣戦。如今朝貢回還、対我都督説知。 他是忠勇好漢、必然威怒、情願揀選精兵、待厳冬氷合、即便渡江征殺倭奴、報效皇朝。”』拠此 情詞、忠義可嘉、委当允行、以攘外患。但夷情叵測、心口難憑。況事在彼中、遽難准信。......」
 
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 遼東都司を経由した兵部の咨文によって、馬三非が万暦二〇年に朝貢入京したこと、ならびに第 一次派兵提案の理由が「今朝鮮は既に倭奴に侵奪せられ、日後必ず建州を犯さん」という危惧に あったこと、この二点が明白であろう。下線部のとおり馬三非の入京目的が朝貢であったのなら、
〔入貢年表〕に照らして松塔らの率いた建州衛朝貢団の一員であったに違いなく、その折に朝鮮派 兵を兵部に申し入れたとの推定が成り立つ。してみると、ヌルハチの龍虎将軍加封を奏請した(実 現は三年後)のも馬三非であったことになるが、実はそれ以前ヌルハチの都督僉事陞叙を要請する 番文の禀帖を遼海参政の栗在庭に進上したのも馬三非その人であった18)。さらにこの人物は「老ヌ 乙ル 可ハ 赤チ 次将」19)と称され、子の馬臣(馬信[本名時シ 下ハ ]、「老乙可赤副将」)20)とともに、明・朝鮮との折衝 に任じられた腹心であったから、ヌルハチの朝鮮救援を代弁するには最適の人選であった。  ところで、カングル・ダイシャンの死後、単独の国主となったメンゲブルは、今度は自分がイェ ヘ国の猛襲にさらされ、万暦二七年(1599)にはヌルハチに質子を納れて、援軍を請うまでに窮迫 した。『東夷考略』「海西攷」はその顛末を、
 
北関那林孛羅乃復糾虜、数侵猛酋(=猛骨孛羅)。二十七年五月、大焚掠猛骨孛羅寨。猛酋不支、 急以子女質建州奴児哈赤借兵。那林孛羅恐、則布飛語、謂「猛酋且執部夷」、以激怒奴酋。奴 酋果怒、且心欲収漁人之利、竟反執猛骨孛羅置寨中、尽略其貲。明年四月、遂捏奸妾法頼、射 殺之。......中朝宣諭、則願帰猛骨孛羅次子革把庫及部夷百二十家。其猛骨孛羅長子吾児忽答、 奴児哈赤以女結婚、請於明年三月受室送帰寨。已竟如約。二十九年七月、奴児哈赤於撫順関外 刑白馬、誓撫忽答(=吾児忽答)保塞。那林孛羅......請補進双貢、如故事。 ※下線部を『東夷考略』「建州攷」は「(奴児哈赤)与那林孛羅各補双貢」に作る。
  と描写する。万暦二七年五月、ヌルハチはメンゲブルの救援要請に応え、ハダ国に援軍を差し向け たものの、ナリンブルが「猛酋 且に部夷(ヌルハチ派遣の援軍)を執えんとす」という流言を放つと、
はたしてヌルハチは激怒する一方で、これに乗じてメンゲブルを国人・勅書・畜産もろともにフェ ファライ
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 =アラに拉致し、翌年四月、妾法頼との密通に託けてメンゲブルを誅殺した。ここにハダ国は併合 されて一旦滅亡する。  従順なハダ国をかねて女直統制の要としてきた明政府は、この事態を座視し得ず、ヌルハチを厳 しく詰責するのみか、市賞(撫順馬市の撫賞銀)の停止をちらつかせたため 21)、ヌルハチは万暦二九 年七月、撫順関外においてウルグダイ(メンゲブルの長子吾児忽答)の保護とハダ国の再興を誓約し、 かつ明の招撫に応じたナリンブル同様、「双貢を補進せんことを請」うた。今次の進貢入京がヌル ハチ自身による補貢形式をとったのは、上記の紛擾に起因する万暦二七・二八年の欠貢を補い、あ わせて綻びの生じかけた対明関係を、たとえ偽装にせよ、臣従と恭順を表明して修復する必要が あったからである。  誓約を履行すべくウルグダイとハダ国の部衆を送還したヌルハチに対して、明は「罪を原し、遂 に不問に置く」(『籌遼碩画』巻首「東夷奴児哈赤考」)ことにした。ところが、それも束の間、イェヘ国 がハダ国の部衆を頻りに寇掠したため、業を煮やしたヌルハチは再びウルグダイ以下をフェ=アラ に収容し、ハダ国は完全に滅亡する。その際、明朝廷内の議論がいたずらに紛糾し、結局ハダ国の 滅亡は既成事実と化してしまった。
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420273 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
 『明実録』がハダ国併合を「奴酋 此より益々強く、遂に制すべからず」(万暦二九年一二月甲戌条) と評し、ヌルハチ発展の画期として位置づけるのは妥当な認識であろう。同じ万暦二九年、マン ジュ国において兵役と徭役を均等に科派する単位としてのニル niru が制定されたのも、国人の増 大と無関係な現象ではあるまい。ともあれ、ハダ国の併合を契機として、ヌルハチの対外的膨張に 警戒と危機感を強める明王朝との利害対立が表面化し始め、両者の関係は新たな段階を迎えること になる。
   
三、ヌルハチ朝貢活動と対明関係の展開―後期―
第III期:万暦三〇-三六年
 〔入貢年表〕に見るごとく、建州マンジュ国の成立以降、毎年進貢を欠かさず、ひたすら忠勤を 励んだヌルハチは、ハダ国併合の騒擾に起因する万暦二七・二八年の欠貢と二九年の補貢を経て、 いくつかの中断期(万暦三一・三三・三五年、三七・三八年、四〇・四一・四二年)を挟む、断続的な朝貢
(万暦三〇年・三二年・三四年・三六年・三九年・四三年)に転換する22)。そこに想定されるものは、もと より対明関係の変質であろう。第I期・第II期を前期、第III期以降を後期と称する所以である。  さて、万暦三〇年から三五年までの六年間、ヌルハチ朝貢団の派遣とその中断(欠貢)を一年 間隔で繰り返した後、ヌルハチ本人の第六次入京(万暦三六年)がこれを締め括る。この時期を特徴 づけるのは、ヌルハチが明に対してようやく恭順の仮面を脱ぎ捨て、強圧的な態度を露わにしたこ とであって、こうした対明関係の変化を理解するにはしばらくヌルハチと遼東総兵官李成梁(任: 隆慶四年 - 万暦一九年;万暦二九年 - 三六年)との関係を顧みる必要がある23)。  既述のごとくヌルハチは父祖以来、遼東鎮の兵権を掌握する李成梁とは深い因縁があり、都督僉 事の陞叙も李成梁の後援なくしては実現しなかった。万暦一九年、李成梁は戦績の糊塗・粉飾を弾 劾されて、一旦総兵官を解任されるが、その後も遼東に隠然たる影響力を保持し続けた。万暦二七 年、一〇年間にわたって遼東で濫悪の限りを尽くすことになる鉱税太監の高淮 24)が派遣されるや、 李成梁はこれと結託し、その二年後には総兵官に復職する(復職時七六歳)。以後、李成梁・高淮に ヌルハチを交えた三者は、人参・貂皮の交易を牛耳って巨利を貪った。  遼東巡按御史熊廷弼(任:万暦三六-三九年)の上疏によれば、万暦三一年以降、ヌルハチは明に 対して「忽ち大いに局面を変じ」、「兇悖の語を出だす」ようになり、万暦三一年から三五年まで 三度(つまり万暦三一・三三・三五年)にわたり欠貢したと分析する25)。この欠貢の誘因となった事件 が「駆民棄地」であって、万暦一〇年代以降、鴨緑江北岸に広がる寛奠(寛甸)等六堡辺外の土地
(もとは女直人の囲猟地)を開拓して住みついた漢人農民が「奴酋の穴に逼りて住種し、参貂を市易し て漸く狎」(『東夷考略』「建州攷」)れ、辺釁を開く恐れがあるとして、総兵官復職後の李成梁が万暦 三一年から三三年にかけて軍隊を発動し、強制的に辺内へ追い返した一件を指す 26)。『山中聞見録』
(巻二)が「李成梁 再起して遼に帥たるも、亦た(ヌルハチを)制する能わず。寛奠六堡(の辺外)を 割きて之を畀え、僅かに之を餌するのみ」と指摘するとおり、「駆民棄地」はもはや李成梁によっ ては制し得ないまでに成長を遂げたヌルハチを懐柔する好餌として断行されたのであった。  かくてヌルハチは坐して六堡辺外の開墾地を手に入れ、一方朝廷には李成梁らが逃民を招回した 功績として報告された。その褒賞は李成梁をはじめ薊遼総督蹇達・遼東巡撫趙楫、さらにはヌルハ
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チにまで及んだ。「駆民棄地」を機に明を与し易しと見たヌルハチは、万暦三四年に人参の買取り と車価(後述)の増額を強要して辺吏を威圧するのみか、要求貫徹のために、前述のごとく建州女 直の進貢自体を三度も絶った。これに狼狽し、また憤激した明側では、まず遼東巡按蕭淳が「建州 の奴・速二酋 明らかに桀驁を肆にし」、「其の勢 測り叵し」(『明実録』万暦三五年一二月癸未条)と陳 奏したのに続いて、薊遼総督蹇達が「建酋 日々漸く驕横なれば、東方の隠憂 虞るべし」(『明実録』 万暦三六年二月癸未条)と警告を発した。さらに朝廷内でも礼部(侍郎楊道賓)と内閣大学士朱賡が相 継いでヌルハチの傲慢かつ威嚇的な言動に非を鳴らし、万暦帝さえも兵部に「其れ遼東の建酋 国 恩を思わず、貢典に遵わず」、「意は何を為さんと欲するや」と諭旨を降した(いずれも〔入貢年表〕 万暦三六年三月の欄参照)。  いまや朝貢の主導権は明にではなく、ヌルハチの掌中にあるかに見えた。ところが、状況は万暦 三六年六月に至って急変する。兵科都給事中の宋一韓が「駆民棄地」の一件を「棄地啗虜」として 糾弾するや、遼東全域を震撼する大事件に発展し、まもなく李成梁と趙楫は罷免され、高淮も北京 に召還されたからである。このとき「棄地啗虜」事件の実態究明に派遣された遼東巡按御史が前出 の熊廷弼であった。  「棄地啗虜」事件にヌルハチがどう対応したかは後述するとして、それに先立って万暦三一年の 欠貢、および万暦三四年におけるシュルガチの入貢に言及しておきたい。というのも、これらに関 しては対明関係由来の影響に加えて、マンジュ国の内情も関与した節があるからである。  まず三一年の欠貢については、当時のヌルハチが安閑として朝貢団を派遣し得る状況になかった ことを指摘せねばならない。すなわち、この年に仲睦まじかった妃のモンゴジェジェ(太宗ホンタ イジの生母)が「病んで回復が難しくなった」(『満洲実録』)27)後、九月二七日に至って遂に逝去した
(『清皇室四譜』巻二・后妃)。死後一ケ月余りも哀悼し続けたヌルハチは、その二ヶ月後の翌年正月八 日、自ら兵を率いてイェヘ国のジャン・アキラン二城を奪い取った。ヌルハチがこの出兵を決行し たのは、死期を悟ったモンゴジェジェが生母に会いたいと懇願するのを、兄のナリンブルが拒絶し たからであった。  ところで、翌三二年の五月と六月、ヌルハチが派遣した朝貢団二個のうち、六月分のそれは補貢 であったとされている。この補貢は前年の欠貢を補填したとしか考えられないのに、『明実録』は なぜか万暦二二・二三年分の補貢と明記する(〔入貢年表〕)。この二ヶ年が実際に欠貢年度であるの ならまだしも、〔入貢年表〕に徴してその種の事実は確認できない。推測の域を出ないが、補貢の 名目としての欠貢年度に関する限り、それらは女直側が主張するままに承認され、明側の深く問う ところではなかったのであろう28)。  他方、万暦三四年の建州衛朝貢団は、ヌルハチの母弟シュルガチが率いるそれであった点で注目 される。シュルガチは最初に入貢した万暦二三年に兄と同じ都督職を獲得したらしく、万暦二五年 末にフェ=アラを訪れた朝鮮の軍官申忠一は、兄への対抗心を露わにするシュルガチの姿を目撃 している(『建州紀程図記』)。万暦二六年頃までに、シュルガチの勢力はヌルハチの三分の一に達し、 以後もこの比率は大きく変動しなかった 29)。当時のマンジュ国は二頭体制下にあったとはいえ、明 白な勢力差を前提としたが故に、不満を募らせるシュルガチと、これを警戒するヌルハチとの緊張 関係は、万暦三七年三月に至って遂に破局を迎えることになる。  そもそも万暦三四年の入貢は、『国榷』同年一二月戊戌(四日)条に
 
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420271 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
  建州衛都督都指揮速児哈赤等入貢。先是減建人車価。礼部左侍郎李庭機代兵部、減車価。建人
  争之、久不貢。李庭機遣序班李維葵往詰之。維葵勧諭、仍補貢。
 
とあるように、礼部左侍郎李庭機(正しくは李廷機、翌三五年五月に入閣)が車価の削減によってヌル ハチの欠貢を招いたため、入貢を促すべく序班李維葵を建州に派遣したのに対して、ヌルハチが応 じたものであるが、ヌルハチ自身ではなくシュルガチが前年(万暦三三年)の欠貢を補貢する形式を とった。シュルガチ率いる朝貢団の車価強索はなおもやまなかったらしく、李廷機は万暦三五年正 月に李維葵をヌルハチのもとに派遣し、車価の減額ないし上限設定を交渉している30)。  これより先、ヌルハチ兄弟は双方とも都督の職銜とベイレ beile の称号を帯び、名目的には同格 であったが、万暦三二・三三年頃にシュルガチは娘を李如柏(李成梁次子)の次室に納れる(『全辺略 記』巻一〇・遼東略、万暦四七年五月条)ことによって、政権内での威信を相対的に高めていた。かた やヌルハチは万暦三四年一二月(日次不明)、本拠ヘトゥ = アラにおいて内ハルハ五部の使節団から クンドゥレン=ハン kundulen han の尊号を奉呈されている。そのときシュルガチは北京滞在中で あったか、もしくは帰還途上にあって不在であった 31)。  かりにヌルハチが故意にシュルガチのヘトゥ=アラ不在を選んでハン号奉呈を敢行し、自らの権 威を突出させたとすれば、やはり兄弟間の葛藤と無縁ではあるまい。その二年後の万暦三六年、兄 弟はそろって、しかしわずかに時期をずらせて別個に入貢する。この入貢は表面上、兄弟の連携行 動に見えながら、その実、ヘトゥ = アラ帰還後間もない翌年三月に政変が発生してシュルガチの 幽閉を見たように、修復不能にまで深刻化した両者の亀裂を内在させていたのである32)。  万暦三六年九月、ヌルハチは撫順関を通過して入貢の途につく。その後を追ってシュルガチが進 貢したことは上述のとおりである。この朝貢は表向きの目的こそ万暦三五年の欠貢を補進し(〔入貢 年表〕)33)、改めて明への忠順を演出することであったけれども、真の目的は別にあった。というの も、「棄地啗虜」によって李成梁はじめ自らの富強を支えてきた遼東官界の人脈を一挙に失ったヌ ルハチは、北京政府の出方を窺う必要に迫られていたからである。明側の反応を試すために、ヌル ハチは大胆にもウルグダイ旧有のハダ勅書三六三道を、ハダ国に指定された開原の広順関ではなく、 撫順関から建州勅書とともに混進し、貢賞を受領しようと目論んだ。この挑発的な違反行為を礼部 は厳しく糾弾し、ハダ勅書の混進を拒否したものの、ヌルハチ以下の北京進貢自体は許容された。  ヌルハチ兄弟の入貢時、ちょうど北京に居合わせた朝鮮の陳奏使(宣祖の没後、光海君の王位承襲と 冊封を奏請すべく派遣された正使李徳馨・副使黄慎・書状官姜弘立)は、漢城に帰着した翌日、つぎのよう に光海君に報告している。『李朝実録』光海君即位年(宣祖四一年/万暦三六年)一二月一八日辛未条 にいう。
 
陳奏使李徳馨・黄慎啓曰、「臣在北京時、聴中朝物議、則以奴酋為憂。且観此胡情状、数年不 為進貢、今年乃遣麾下八百名于京師、争賞銀之多少。其侮践中朝者甚矣。臣見東征時来此路人 問之、則皆以為此賊憂在遼(陽)・広(寧)、其次在貴国。......」
   陳奏使の報告によれば、そのとき「中朝の物議」を醸し、憂慮の中心に位置したのが、「数年進 貢を為さず」、今年総勢八百名を率いて来貢したヌルハチであり、その行状たるや「賞銀の多少を
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争」い、「中朝を侮践」して憚るところがなかったという。こうしたヌルハチの振舞いは傲慢に発 したというより、明の反応を窺う瀬踏みと解されるべきであろう。なお、〔入貢年表〕によると、 万暦三六年度の入貢者数はヌルハチ麾下の三五七名、および兄とは別行動をとったシュルガチ麾下 の一四〇名、合計四九七名であるから、建州配当勅書五百道のほぼすべてを投入したことになる。 これに反して、陳奏使は建州衛朝貢団を八百人(後述する朝鮮冬至使の観察では九百余名)と明記し、 大きく隔たる。双方の差額三百名(ないし四百名)こそ、件のハダ勅書を所持した三六三人であると すれば、彼らは混進こそ拒否されたにせよ、入貢自体は許容されたという解釈が成り立つ。  陳奏使一行が北京を去る四日前の一〇月二九日、朝鮮の冬至使(正使申渫・副使尹暘・書状官崔晛) が北京の玉河館(会同館)34)に到着し、それ以前から玉河館に滞在していた建州衛朝貢団に関する 注目すべき見聞を記録にとどめている。その記事が崔晛の『朝天日録』35)に見える以下の五条であ る。そのうち、(1)(3)(4)(5)は直接目撃した情報に属する一方、(2)は前記の李徳馨らが報告 した「中朝の物議」の内容をより詳細に伝える。崔晛は(2)の四日前の一一月初一〇日条に「臣 等 連日通報を見るを得、又た物議を聞くに、諸科臣 閣老朱賡・李廷機・王錫爵等を攻撃し、累牘 連章、其の醜詆を極む」と記すので、(2)の内容は「通報」(邸報を指す)と「物議」(世上の論議) から得た情報であった。
 
(1)巻二・万暦三六年一〇月二九日(癸未)条
 (臣等)抵玉河館。......陳奏使一行已寓(玉河館)東照。臣等寓于(玉河館)西照。㺚子九百余 名已寓(玉河館)北照、未来者亦多云。
(2)巻三・万暦三六年一一月一四日(丁酉)条  近日各道科臣攻撃相臣尤急、弾章無虚日、至比李廷機於晁錯開釁七国之罪。蓋前日夷人入貢
時、沿路各駅発車逓送之際、駅卒・居民参半出車。建夷驕横、一車所発之処、徴銀六七両。 駅民不堪侵暴、相継流散。廷機差官暁諭、定其約束、減其車価。建夷忿怒、執以為辞、絶不 入貢者数年。今冬始為来貢、而数至一千五百人、侵徴車価倍至二十余両。居民・駅卒売家不 給、継以逃躱。
   且遼東開原衛以北、土地沃饒、居民殷富。建夷以為開原以北皆我地也、若不撤還居民、則宜
   以地税輸我、不然則尽殺無遺。李成梁屢次題奏、歳給地税八千両。広寧銭粮不足、成梁常以
   家財厚遺建夷、務止其怒。而又剋減軍卒月銀、補其不足。故軍卒怨之。
 科臣参論、以削減車価、捐地受悔、為廷機・成梁之罪案。然中国已不能制此桀虜横恣之勢、 而瞋目一怒、朝廷震恐。被他奪地収税而不敢討、貽害一路而不敢問。成梁之棄地給税、固有 罪矣。至於廷機之削減車価、亦出於不容。已而等論以開釁之罪、不亦冤乎。
(3)巻三・万暦三六年一一月一六日(己亥)条  四更頭、臣等詣闕隨参賀礼。皇帝不親賀。故千官序立午門外、只行五拝三叩頭礼。......外夷
隨参者、惟琉球使者・建州衛・海西衛及三衛韃子而已。...... (4)巻四・万暦三六年一二月二五日(戊寅)条
 四更、詣闕辞朝。琉球使者・㺚子等、同日辞朝。㺚子等、前此已往。而未帰、留館者、今日 辞朝。
(5)巻四・万暦三七年正月二〇日(癸卯)条
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420179 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
 建州衛㺚子三百六十余人入館、寓于(玉河館)北照。前此、㺚子皆出去、而未来者尚多。此 三百余人中、多有海西㺚子。而奴酋盛強、尽搶掠海西、作為麾下、又奪其勅書以来云(割注: 㺚子入貢者、皆受勅書。無勅書、不得入。故建夷奪海西衛勅書而来)。
   これらの記載を対照することで、北京に赴いたヌルハチ兄弟と建州衛朝貢団の動きについて、新 たな知見をいくつか追加することができる。その第一は、建州衛朝貢団の北京到着と北京退去の時 期に関する推定である。(1)と(5)によって朝鮮の冬至使が玉河館に到着した万暦三六年一〇月 二九日時点で、ヌルハチ・シュルガチ両者の率いる朝貢団はすでに玉河館に滞在していたこと、さ らに翌年正月二〇日までに彼らが玉河館を退去していたこと、この二点が分明する。ヌルハチの率 いる朝貢団三五七人が撫順関に到着したのが万暦三六年九月二日36)、北京までの所要日数が二〇日 前後であり37)、また(2)がヌルハチの来貢を「今冬」とするからには、一〇月初めには北京に入城し ていたであろう。  一方、(3)は冬至使一行が一一月一六日に冬至を慶賀すべく参内した際、琉球使者・建州衛・海 西衛(イェヘ国派遣の朝貢団)・三衛韃子(兀良哈三衛)とともに午門外で万暦帝(ただし親臨せず)に朝 見したと明記し、さらに〔入貢年表〕によると一二月二日にヌルハチは貢賞の頒給を受けている ので、北京を去ったのもその数日後であったはずである38)。(4)によると、冬至使一行が辞朝した 一二月二五日(賞銀受領に手間取ったため、冬至使の北京退出は翌年正月二一日まで遅れた)に、琉球・㺚子 の使節も辞朝したとあるが、この㺚子はヌルハチの率いる朝貢団がすでに去った後も、「未だ帰ら ず、(玉河)館に留まる者」であった以上、一二月二一日に貢賞を頒給されたシュルガチ一行に相違 ない。ちなみに、イェヘ国の朝貢団二二一名への貢賞頒給は一二月庚辰(二七日)に記録されてお り39)、よって辞朝はそれ以後であったことになる。  第二はヌルハチの北京滞在期間が約二ヶ月にわたったことである。万暦『明会典』(巻一〇八、礼 部・朝貢四・朝貢通例)の「貢回定限」(万暦七年の規定)によれば、進貢女直人に許可された北京滞在
日数は四〇日であるから、これを大幅に超過する。滞在延長は当然ながら供応費の膨張を伴い、ヌ つね
ルハチ兄弟の北京退出後、礼部が「建州貢夷の縻費、経無し」と訴えたのを受けて、万暦帝は「各 衙門 着して速やかに(貢夷の)発遣を作し、遅延するを得ざらしめよ」と下命している(『明実録』 万暦三七年三月丙午条)。
 なお、『国榷』万暦四〇年三月条に
 
是月、光禄寺卿徐必達言、「『会典』貢回定限、朝鮮、泰寧・朶顔三衛、女直、月零十日。四 川・陝西番僧番族、月零二十日。又両月外不回者、住支下程。此礼部与臣等、宜共守也。邇来 踰限、多或百日、少亦両月。......」
 
とあり、従来、貢回定限を遵守しない女直等の入貢者に対して、滞在二ヶ月を超過した時点で下程 (猪肉・乾魚・麺粉・酒茶・調味料・蝋燭等)の支給を停止したが、それでも違反者は跡を絶たず、礼部・ 光禄寺は規定励行を改めて徹底せねばならなかったという。ヌルハチとしては下程の支給期限を最
大限利用したわけである。  第三は万暦三六年度における建州衛朝貢団の員数であって、(1)の「九百余名」と(2)の
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「一千五百人」とでは径庭が大き過ぎる。ヌルハチの掌握した総計八六三道の勅書(建州勅書五百道・ ハダ勅書三六三道)を行使する限り、どのみち八六三名を越える朝貢団など編成すべくもない以上、 邸報ないし「物議」を鵜呑みにした(2)の人数は信ずるに足らない 40)。むしろ重視すべきは「九百 余名」が前記の「八百名」と同様、ヌルハチ兄弟の率いた朝貢団八六〇名(建州勅書四九七道・ハダ 勅書三六三道)と概ね合致する事実であって、(5)が万暦三七年正月二〇日に玉河館に入ったとする
「建州衛㺚子三百六十余人」とは、ハダ勅書の所持者三六三名以外の何ものでもあるまい。玉河館 への入館、つまり入京が万暦三七年正月まで遅れたのは、ハダ勅書の混進を理由に足どめされたか らであると考えたい。  このことを別の側面から傍証しよう。(1)によると、建州衛朝貢団の約五百名が玉河館に入った 時点で「未だ来たらざる者、亦た多し」といい、また(5)にはこの五百名が玉河館を引き払った 後も、「未だ来たらざる者、尚お多し」とある。これらの「未だ来たらざる者」が同一の対象を指 し、かつ上記の「三百六十余人」に一致するとすれば、万暦三六年派遣の建州衛朝貢団中、遅れて 翌年正月に入京した女直人であったと結論せざるを得ない。(5)の「此の三百余人(=三百六十余人) 中、多く海西㺚子有り」に着目するなら、「三百六十余人」は件のハダ勅書三六三道を所持した入 貢者であって、その内部には多くの「海西㺚子」(ハダ国遺民)が包摂されていたのである。  第四は(2)が物語る具体的な内容である。(2)は前記のごとく邸報と「物議」に基づく情報で あり、ヌルハチが北京に滞在したのと同時期に、内閣大学士李廷機と総兵官李成梁が「各道科臣」
(都察院各道監察御史)たちから弾劾の集中砲火を浴びていた事実に言及する。(2)の記すところで は、李廷機の弾劾理由は「車価の削減」によって「建夷が忿怒し」「絶ちて入貢せざること数年」 という事態を惹起し、それがためにかえって入貢督促に汲々として朝廷の体面を損なったからであ り、李成梁のそれは「(建夷に)歳々地税を給し」て、「地を捐てて悔りを受」けたからであった。  棄地啗虜に関する(2)の内容は、ヌルハチが「開原以北」の土地を争い、その代償として「地 税八千両」の支給を要求したとするなど 41)、必ずしも正確ではない。それと対照的に車価に関する 情報は、より高い参照価値がある。通説上、車価は「進貢に使用する車輛の代償銀」42)とか、「恐 らく貢夷が自弁した運搬費に対する代償銀の謂であろう」43)と説かれてきたものの、その実態は曖 昧であった。(2)およびこれと符合する明側の記録を加味して考えると、元来車価とは車輛単位で 朝貢団に支給された旅装用の布疋を折銀したものを指したのであるが、後に車価の上乗せを要求す る女直人朝貢団が彼らの移送に携わる貢道沿いの駅卒と居民から強制的に徴発するに至ったようで ある44)。  以上を要するに、棄地啗虜と車価減額の二件をめぐって紛糾の渦中にあった北京を、ヌルハチ兄 弟は訪れたのであった。あまつさえヌルハチは勅書混進を企て、「中朝を侮践すること甚し」い言 動に及んだのであるから、これを迎える朝廷の視線には自ずから険しいものがあったであろう。反 ヌルハチ感情を一層刺激した事件が印文の投擲であった。『万暦邸鈔』万暦三七年正月条に引く山 西道監察御史馮嘉会の奏文によれば、正月二四日に「建夷三百余名」(上記『朝天禄』(5)の「三百六十 余人」ないし「三百余人」に同じ)が午門で朝見した際に、その二人が班次を乱して御道に突出し、ヌ ルハチの印文を投擲したのであった。同書万暦三七年二月条に引く湖広道監察御史房壮麗の奏文 は、「投ずる所の印文」が「既に表章に非ず、亦た奏疏に非ず。詞は極めて褻慢にして、『你中国、 我外国、一家両家、你們我們』等の語、是れ何の称謂ぞや」と糾弾する。
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42017 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
 「其(印文)の意は勘地を阻撓する者と為す」(〔入貢年表〕万暦三七年二月欄)とあるように、印文は 棄地査勘の妨害を意図していた。また印文中に言及された「新立の碑碣」とは前年六月二〇日に ヌルハチが「遼東(遼陽)の呉副将」らと定界碑を立て、相互に越境侵犯の禁止を誓約したとする
『満文老檔』の記載 45)と符合する。印文内の「你中国、我外国」以下の語句は、ヌルハチが碑面に 刻ませた文言に他ならない 46)。  ヘトゥ=アラ帰還後、ヌルハチが万暦三七年正月に新任巡撫の動きを探ろうとして、漢人に変装 した奸細を遼西に放ったことや、同年三月にシュルガチを幽閉して懸案の二頭体制を清算したこと は、いずれも棄地啗虜事件から派生した政権の動揺、および入京に際して実感したであろう明側の 険悪な空気に対する危機感の反映であったに相違ない。しかし、ヌルハチが対明政策を根底から転 換させるには、なお数ヶ月を要した。このことは次項でふれるとして、先にシュルガチの幽閉に一 言しておこう。  二頭体制の解消は早晩不可避であったとはいえ、ヌルハチ兄弟のヘトゥ=アラ帰着後ほどなく発 生した点については、ヌルハチの秘められた意図があったように思われる。シュルガチは万暦三六 年一二月二五日から数日後に北京を退出したはずであり、よってそのヘトゥ=アラ帰着はヌルハチ から遅れること約一ヶ月の翌年正月下旬と推定される。換言すれば、この一ヶ月間、シュルガチは ヘトゥ=アラに不在であった。前述したハン号奉呈の一件を考慮しても、この空白期間は単なる偶 然ではあるまい。のみならず、シュルガチが帰着してから幽閉される三月一三日まで、二ヶ月にも 満たないという事態の急展開は、かねてヌルハチに期するところがあったことを示唆する。
 
第IV期:万暦三七 - 三九年
 上記のように、車価・棄地の二案件をめぐって騒然としていたさなか、北京に乗り込んだヌルハ チの大胆不敵な振舞いは明朝廷の神経を逆撫でし、制裁の発動を惹起せずにはおかなかった。それ こそヌルハチの入貢督促に固執してきた明側が一転して断行した、万暦三七・三八年の二ヶ年にわ たる朝貢停止であった。この朝貢(と互市)の差し止め、すなわち経済制裁によって互市場(撫順・ 清河等)に投入するはずであった厖大な人参が腐乱するにまかされ、さすがのヌルハチも苦境に 陥った(〔入貢年表〕)。『明実録』には停貢の発令を明示する記述はないが、件の熊廷弼はヌルハチの 対明関係が万暦三七年春夏までの「虚喝」から秋冬以後の「卑屈」に転換したと指摘するから47)、 停貢措置は同年夏秋の交には実施された公算が高い。  〔入貢年表〕によれば、翌三八年五月、ヌルハチは車価の撤回、入貢者数の削減、棄地の部分的 返還(張其哈喇佃子のみ)を約束して懸命に恭順を装い、速やかな停貢解除を懇請する。ここに明は ようやく朝貢の主導権を回復したのであって、停貢がヌルハチ政権に致命的な打撃を与えることを 看破した熊廷弼は、マンジュ国内に収容されたハダ・ホイファ等の遺民を離反させてヌルハチ政権
を内部から切崩すと同時に、モンゴル諸部と連携して外部から封じ込めるという両面作戦を立案 けいりゃく 48)
し、「此れ奴(酋)を馭するの一大 機 括 なり」としてその実行を強く主張した 。  この強硬策に対して、兵部はヌルハチを追い詰めて暴発させることを恐れ、科臣の「建州を釈し て外懼と為し、姑く侵地(=棄地)を置き、先に貢を許し、東方を敉寧せんことを請う」(〔入貢年表〕 所引の『東夷考略』)という姑息な議論に賛成し、遂に翌三九年六月、万暦帝によって朝貢再開が裁 可された。その結果が同年一〇月におけるヌルハチ本人の北京進貢であり、万暦三七・三八年の停
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貢分を補貢する形式をとった(〔入貢年表〕)。  
第V期:万暦四〇 - 四三年
 しかるに、これ以後三年にわたり、朝貢は再度中断する。〔大事年表〕に徴してその直接的な原 因は、ウラ・イェヘ両国との紛争、およびこれと並行して発生した旧ハダ耕地の再開墾問題、さら にはこれらに起因する対明関係の悪化にあったと考えられる。  ヌルハチはハダ国に続いてホイファ国を滅ぼし(万暦三五年)、つぎの目標をウラ国に定めた。ウ ラ国主のブジャンタイはグレ山の決戦で捕虜となった後、助命の上、本国に送還された人物であ り、ヌルハチ・シュルガチの娘を三人までも妻室に与えられながら、ヌルハチに叛服常ない態度を 持し、ワルカ部とフルハ部への進出をめぐっては激しい角逐を演じた。ブジャンタイの懐柔を断念 したヌルハチは万暦四〇年九月、大軍を率いてウラ国の六城を抜き、翌年正月に本拠のホンニ城を 陥れて同国を滅した。部衆千余人を率いてジャンタイはイェヘ国に落ち延びた。  ヌルハチは、ギンタイシ(故ナリンブル次弟)とブヤング(ブジャイ長子)がブジャンタイの引き渡 しをはねつけたこと、ならびにブヤングの妹(所謂「北関老女」)との婚約(万暦二五年成立)を遷延し て履行しなかったこと、この二点を理由にイェヘ国を非難した。イェヘ国と戦端を開けば明の介入 は必至であった上、ヌルハチは明側とは旧ハダ国の耕地再開墾をめぐる係争中の問題を抱えてい た。そこでヌルハチ庶子バブハイ(巴卜海)を人質に差し出して誠意を示し、紛争の原因がイェ ヘ国にあることを明側に訴えた。  ヌルハチの主張に動かされた遼東巡撫張濤は、バブハイを一旦広寧に受け入れるが、兵部は「其 の子の真偽 辨ち難く、之を留むれば反って紿く所と為らん。遣還するの便なるに如かず」(『明実録』 万暦四一年九月丙辰条)として送還を唱え、万暦帝の支持を得た。人質計画は頓挫したとはいえ、こ れによって明が警戒と防備を緩めたと見るや、ヌルハチは万暦四一年九月、イェヘ国に攻め込み、 大小一九城を焼き払った。ハダ国の滅亡後、明はイェヘ国をヌルハチ牽制に利用せざるを得なかっ た関係上、ギンタイシらの救援要請を捨て置けず、ヌルハチを譴責する傍ら、火器部隊をイェヘ国 に駐留させた。明との決裂はいずれ避け難いとしても、いまだ時期尚早と判断したヌルハチは撫順 に出向いて書信を託し、宿怨あるイェヘ国を討伐したまでで、明王朝に対して毫も異志のないこと を釈明した。  イェヘ国との紛争以上に深刻な問題が、旧ハダ耕地の再開墾に対する明側の干渉であった 49)。ヌ ルハチはウラ国を滅ぼす万暦四一年までにワルカ部、ウェジ部諸路、ホイファ国を併合し、それら の部衆を本拠周辺に遷徙させた結果、人口の急激な増大に伴う慢性的な食糧の欠乏に直面してい た。もともと建州の耕作地は地味が痩せて収穫量に恵まれず、食糧難の打開には新規の農地開墾が 不可欠であった。その必要性を否応なしに切迫させた要因こそ、二年間の停貢措置を機に露呈した ヌルハチ政権の脆弱性、すなわち明内地の消費市場に依存する他ない貢勅制の不安定性であった。 従って、明の羈絆を断ち切り、貢勅制から脱却しようとすれば、食糧自給体制を早急に確立する以 外に残された進路はなかった。  ヌルハチは万暦四一年三月、無人と化して久しい旧ハダ国の沃地再開墾に着手する50)。その意図 を見抜いた明側はたちまち再開墾を阻止したばかりか、一旦は撫順・清河における和糴(穀物購入)、 および人参・貂皮の取引きまで禁止した(〔入貢年表〕)。再開墾と和糴の禁止措置がヌルハチ政権の死
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420175 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
命を制する決め手となったことは、『明実録』万暦四二年四月丁酉条が述べ尽して余すところがない。  
巡按山東翟鳳翀題、「......蓋奴酋擅貂参海珠之利、蓄聚綦富。独其地頗磽瘠、糧料時苦不給、欲 為広墾儲糧之計。今不論新墾旧墾、但係南関之地、則不当容建夷住種、有五利焉。一、不得逼 近内地、偵我虚実。二、不得附近北関、肆其侵擾。三、不使糧料充足、卒飽馬騰而生戎心。四、
令其糧餉不敷、如遇飢荒、叩関乞哀于清(河)・撫(順)之市、暫准和糴如四十一年故事、以彰 はかりごと
我生養之徳。五、則市糴可多可少、相其順逆緩急、以操駕馭之 機 権 。......」疏入、下部議。  
 再開墾の阻止がもたらす五利のうち、特に第四と第五によって撫順・清河からの穀物輸入がヌル ハチにとって死活問題であり、それ故に明は穀物供給量の調節によってヌルハチを自在に操ろうと 企てたことが明白である。明側の狙いは的中し、翟鳳翀の上疏が部議に下された翌月(五月)、ヌル ハチは明の要求するままに「退地定界」(ハダの故地に接する三岔児等六堡に定界碑を立て、六堡辺外の土 地から退去する)を受諾したのであった 51)。  ウラ国の滅亡とブジャンタイのイェヘ国亡命、さらに耕地再開墾問題に端を発する三ヶ年の欠貢 後、万暦四三年にヌルハチは最後の朝貢団を派遣する。先行する朝貢中断の場合、それに続くのは いずれもヌルハチ本人の北京進貢であったが、今次の朝貢は大針ら一五人の派遣にとどまった。薊 遼総督・遼東巡撫と兵部はこの朝貢に対して、以下のごとく対照的な反応を示した。『明実録』万 暦四三年三月丁未条にいう。
 
兵部以建州・海西夷人進貢上聞、「......至是薊遼督撫奏称、『近日奴酋自退地鐫碑之後、益努為 恭順、此番進貢止大針等一十五名。夫以千五百之貢夷而減至于十有五名、豈不唯命是従哉。』
えいえい 雖然夷狄犬羊、安能保其百年恭順。......何可以納貢減夷、輒視奴酋為易与、而遂泄泄弛備也。
......」  
 「退地鐫碑」(=退地定界)以後、ヌルハチが「益々努めて恭順を為」すべく、千五百名(建州公認 分は五百名)の朝貢団を一五名にまで激減させたからには、「豈に唯だ命に是れ従わざらんや」と現 地の薊遼総督や遼東巡撫が楽観的に受けとめたのに反して、兵部はさすがに「安くんぞ能く其の百 年の恭順を保たんや」と警戒の色を隠さなかった。明側の認識がどうあれ、退地定界によって進退 窮まったヌルハチには、もはや自ら入京する意志も、これ以上朝貢を続行する意図もなかったであ ろう。なぜなら、万暦四三年は八旗八グサ制の創建とまさしく同年であり、またゲンギェン = ハン 即位と後金建国を翌年に控えて、ヌルハチは自立を待つばかりの態勢にあったからである。今次の 朝貢は明に反旗を翻すまでのいわば時間稼ぎであって、遂に征明を決意したヌルハチが新たな活路 を求めて八旗軍団を遼東の漢地に進めるのは三年後の万暦四六年(後金・天命三年)のことであった。  
お わ り に
   以上、ヌルハチ朝貢活動を五期に区分して、それらと対明関係の照応を立証しようと試みた。 いま、その議論を整理しなおし、結びに代えることにしたい。
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 前期 第I期(万暦一六 - 二六年)         貢勅の発給・運用は、明王朝にとって飽くまで女直の統合阻止を目的としていた
        が故に、ヌルハチ明王朝に対してひたすら恭順を装い、その支配圏を建州域内
        に限定している間は、貢勅制との矛盾は回避された。
    第II期(万暦二七 - 二九年)         しかし、ヌルハチが海西ハダ国の併合(万暦二九年)を機に、全女直の統合と政治
        的自立への野心を露わにし始めると、これを警戒する明王朝との摩擦が現実のも
        のとなったが、いまだ対立は深刻ではなかった。
 後期 第III期(万暦三〇 - 三六年)         第II期を過渡期とするこの時期に、李成梁と結託して富強を誇るヌルハチは、隔
        年で入貢と欠貢を繰り返すことによって朝貢の主導権を握り、対明関係を従来の
        恭順から威圧に大きく転換させ、明朝廷を揺さぶった。
    第IV期(万暦三七 - 三九年)
        威圧策が頂点に達した万暦三七年に至って、明朝廷の断行した停貢(=経済制裁) によって、一朝にして政権崩壊の危機に瀕したヌルハチは恭順の偽装に復帰し、 明側も停貢の解除によって強硬策から妥協策に転じた。
    第V期(万暦四〇 - 四三年)
        貢勅制からの離脱を図るものの、食糧難打開の道を閉ざされたヌルハチは、しば し恭順を装って貢勅制の延命を試み、最後の朝貢団を派遣する(万暦四三年)が、 それは独立を宣言するまでの時間稼ぎに過ぎなかった。

1 )「ランブルハン langburhan 勅書(誥命)」の詳細は、承志(Kicengge)『ダイチン・グルンとその時代――帝国 の形成と八旗社会』2009、pp.42-44 参照。同書はランブルハン勅書を『満文老檔』の原拠である『満文原檔』
(天命八年七月二三日条)から日本語に訳出しており、それによるとランブルハン(郎孛児罕)が毛憐衛の指 揮僉事から指揮同知に陞叙されたのは永楽一四年(1416)正月二〇日であった。これほど年代の古い勅書が後 金国に現存したこと自体、一個の驚異であるが、それが伝来した経緯は不明である。
2 )以下の叙述は主として江嶋壽雄「明代女直朝貢貿易の概観」[初出 1958]・「明末女直の朝貢」[初出 1962](と もに『明代清初の女直史研究』1999 所収)、ならびに三田村泰助「ムクン・タタン制の研究――満洲社会の基 礎的構造としての――」[初出 1963](『清朝前史の研究』1965/1972)pp.144-157 に依拠する。
3 )ここで用いた『明実録』は京都大学文学部編『明代満蒙史料 明実録抄 満洲篇』(1943-59)、ならびに吉林省社会 科学院歴史研究所編『明実録東北史資料輯』(1990)である。なお、本稿で使用した『李朝実録』は東京大学文 学部編『明代満蒙史料 李朝実録抄』(1943-59)、ならびに呉晗輯『朝鮮李朝実録中的中国史料』(1980)である。
4 )女直人が朝貢と互市を通じて獲得した利益のうち、貢納物(馬匹・貂皮等)に対する返礼にあたる貢賞(回 賜・正賞[撫賞])はもともと綵緞・絹布等を主内容としたが、いずれも嘉靖年間以降、折銀されるようになっ た。その総額は万暦三六年の場合で二万七千両に達した(『明実録』[内閣文庫本]万暦三六年一一月辛卯条)。 このとき入貢した女直人は後述するように、建州衛(マンジュ国)の四九七人と海西弗思木等衛(イェヘ国) の二二一人であり、建州衛四九七人のうち二百人は万暦二六・二七年分の補貢にあたる(後注 33)参照)。 よって、建州衛朝貢団の貢賞は補貢者数二百人の二年分(四百人)を加えた六九七人分となり、この人数に即 して按分すると、両国の取り分はほぼ二〇五二〇両(七六%)ならびに六四八〇両(二四%)と推算し得る。 換言すれば、ヌルハチは建州配当の勅書全五百道を投入することで、二万余両の銀を獲得することが可能で あったわけである。
   二万両の価値を知るには、ヌルハチ個人の財産と比較することが捷径である。ヌルハチが年長の嫡子チュ
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ヌルハチの対明関係とその展開過程について
イェンとダイシャンに財産(国人・牧群・銀・勅書)の「大半」amba dulin(=三分の二)を割いて分与した とき(万暦三四年末か)、銀に関して二子の分け前は各々銀一万両であった(満文老檔研究会訳註『満文老檔 I 太祖1』1955、pp.30-31)というから、分与前にヌルハチが所有した銀の総額は三万両であったことになる。 貢賞銀の多くはヌルハチ・シュルガチ兄弟の臣下たちに分給されたにせよ、朝貢がいかに実入りのよい「商売」 であったか、反面朝貢の中断から生ずる損失がいかに大きかったか、想像に難くない。
   つぎに互市交易を通じた現銀収入に目を転ずると、史料が断片的にしか残存せず、全体像の再構成は困難に せよ、楊暘『明代遼東都司』(1988、pp.131-133)によれば、万暦一一年七-九月と翌年一月-三月の六ヶ月間に 開原の互市場でハダ・イェヘ両国が取引した多様な天産物中、人参だけでも三六一九斤、一斤当り銀九両とし て計三二五七〇両余りにのぼったと算定されている。しかも、一斤当りの人参価格は九-二〇両と推定されて いる(前掲三田村泰助「ムクン・タタン制の研究」pp.271-272)ので、三二五七〇両は最少の見積もりに過ぎ
誇張があるとしても、互市交易から得られる年間収益は、人参単独でも貢賞をはるかに凌駕したであろう。た
だし、朝貢なくしては互市もない以上、朝貢を互市より低く評価するのは当らない。
5 )閻崇年「努爾哈赤入京進貢考」[初出 1983](『燕歩集』1989)p.29 参照。
6 )閻崇年氏とは別個にヌルハチの入京回数を検討した孫文良氏は、2を除外して七次と結論するが、除外理由に
ついては特に指摘するところがない。孫文良「論努爾哈赤与明朝的関係」「初出 1978」(『満族崛起与明清興亡』
1992)p.25 参照。
7 )前掲閻崇年「努爾哈赤入京進貢考」pp.30-31。
8 )本稿では以下、参照文献名と引用文中での表記を除き、一国史観に偏する「壬辰倭乱」・「文禄慶長の役」・「抗
倭援朝」という名辞は用いず、「壬辰戦争」で統一する。
9 )桂勝範(계승범)「壬辰倭乱ヌルハチ」(鄭杜熙・李璟珣編著[金文子監訳・小幡倫裕訳]『壬辰戦争――16
世紀日・朝・中の国際戦争』(原題:임진왜란 동아시아 삼국전쟁[壬辰倭乱――東アジア三国戦争])2008、
p.396。 10)同上 p.397。
11)桂勝範論文の末尾には「戦闘・膨張」・「内治」・「外交」の三欄に区分した年表「ヌルハチの建国過程(一五八三 ~一六一五)」pp.412-419 が附載されているが、ここでは筆者作成の〔ヌルハチ関連大事年表〕を用いる。
12)前掲桂勝範論文 p.406・p.414。
13)同上 pp.430-431 参照。私見によれば、一五九五年から一五九八年にかけてのマンジュ国の総兵力は約一万五千
人、うち半数の約七千人が精兵であったと推計される(拙稿「マンジュ国〈四旗制〉初建年代考」『立命館
洋史学』32、2009、pp.8-11)。
14)前掲桂勝範論文 p.404。 15)朝貢は明の内情を探査する好機でもあって、兀良哈三衛や海西・建州女直が朝貢の往返を通じて「中原の道路、
京師の虚実、周知せざる靡し」(『明実録』万暦一九年八月戊午条)、あるいは「進貢往来に因りて中国の情弊 を熟識し」「且つ往来窺探し、易険を熟知す」(『明実録』万暦三〇年六月戊申条)という実態を、明政府は憂 慮している。
   また、ヌルハチは間諜の利用を含む情報収集を特に重視した。その一端を示すと、たとえば壬辰戦争中、日 本軍と鳥銃(火縄銃)に並々ならぬ関心を示したことが、万暦二三年(1595)末にフェ=アラを訪れた申忠一 の『建州紀程図記』に活写されている。一方、壬辰戦争以降の行跡ながら、ヌルハチは万暦三五年にホイファ 国を滅ぼした際、同国の主城に商人に扮装した精兵を潜入させて内部の「時機を詳探して以て内応を為さしめ」 たとあり(『李朝実録』宣祖四〇年一〇月庚辰条)、さらに同様の潜入と詳探は万暦三七年正月の対明諜報活動
(後述)や、後金天命三年の撫順攻陥時にも繰り返されている(『明実録』万暦四六年四月甲辰条)。その他、 後金建国後の諜報活動については、高慶仁「努爾哈赤的用間策略」(傅波主編『清前史論叢』1994)pp.174-186 にまとまった叙述がある。
   加えて、万暦二六年の入京意図を窺わせる特異な事実として、北京滞在の時期と日数に注意を喚起したい。 まず賜宴の日付に按じて、ヌルハチは万暦二六年一〇月二一日以前に入京していたであろう。かたやヌルハチ の北京退出は正月二〇日であった。黄汝一『銀槎録』によると、朝鮮の陳奏使一行(正使李恒福・副使李廷 龜・書状官黄汝一)が万暦二七年正月二一日、通州でヌルハチ率いる朝貢団と遭遇し、翌日北京に到着したと 記述する(拙稿「ジュシェン - マンジュ史箚記二題」『立命館東洋史学』40、2017、pp.19-23)。ここから逆推 すれば、ヌルハチが北京を退出した日付は正月二〇日であった。
   よって、ヌルハチの北京滞在は少なくとも三ヶ月間に及んだのであるが、入貢女直人に許された北京滞在日 数の上限四〇日(後述)に比して、三ヶ月は異様に長い。期間延長の理由は不詳にせよ、上記の滞在期間が秀 吉の死没(八月)から日本軍の半島撤退(一一月)に至る壬辰戦争の最終局面と重複することは、恐らく偶然
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きん ない。ヌルハチの場合、その蓄積した人参は「十余万觔」(〔入貢年表〕万暦三八年)に達したとされる。幾分

ではあるまい。明中央が秀吉の死没と日本軍の半島撤退を知らせる第一報に接したのは、それぞれ一一月一二 日(癸巳)と一二月一五日(丙寅)であった(鄭樑生編校『明代倭寇史料』第二輯 1987、p.647・pp.650-651 所引の『明実録』による)。これらの情報は邸報を通じて流布した(『万暦邸鈔』万暦二六年一一月条・一二月 条)から、情報通のヌルハチが知らなかったとは考えづらい。
16)荷見守義「ヌルハチ助兵の謎――文禄・慶長の役との関係をめぐって――」『弘前大学国史研究』120、2006、 p.37 参照。
17)『東夷考略』「建州攷」によれば、ヌルハチはこのとき、あわよくば明の援軍を得てイェヘ国を討とうとしたも のの、不成功に終わったという。この事実は、第一次派兵提案の目的が明王朝の支援を取りつけてイェヘ国を 牽制することにあったとする荷見説を、側面から補強するかも知れない。
18)顧養謙「属夷擒斬逆酋、献送被虜人口、乞賜職銜疏」(『冲菴顧先生撫遼奏議』巻一九)。この上疏によれば、 栗在庭が開原参政の成遜と会査して、ヌルハチの都督陞叙を東夷制御に有益であると報告したのを受けて、遼 東巡撫顧養謙が薊遼総督張国彦、遼東総兵官李成梁、巡按御史徐元と会題奏請したとある。
19)『李朝実録』宣祖二九年四月己酉条。
20)『李朝実録』宣祖二八年一二月癸卯条。 21)『籌遼碩画』巻首「東夷奴児哈赤考」、および『明実録』万暦四三年正月乙亥条(遼東巡撫郭光復の上疏に対す
る兵部の覆奏)に依拠。後者は万暦初年から四二年に至る女直諸勢力の角逐盛衰を回顧概述し、そのなかで市 賞停止に言及する。この市賞とはヌルハチが万暦三〇年以前から支給された「撫順所原有の額賞」一二〇両を 指す。和田清「明末に於ける鴨緑江方面の開拓」[初出 1919](『東亜史研究 満洲篇』1955)p.532、前掲江嶋壽 雄「明末女直の朝貢」pp.201-202 参照。
22)万暦二四年と同三四年の入貢について付言しておきたい。いずれも『明実録』には未見であるが、建州女直の 朝貢自体は実在したと考えてよい。万暦二四年に関しては、〔入貢年表〕に示したごとく、『東夷考略』に「(奴 児哈赤が)貢夷に附して上奏した」とあるので、これを入貢記事として補っておいた。その前年にヌルハチの 龍虎将軍加封が実現しているので、万暦二四年に謝恩の朝貢団派遣があったとしても不思議はない。また、万 暦三四年に関しては、かつて迂闊にも『国榷』載録のシュルガチ入貢記事を見落し、誤ってこの年次を欠貢 年度に加えてしまった(拙稿「マンジュ国〈五大臣〉設置年代考」『立命館文学』601、2007、p.64・p.73[注 64)]、および前掲拙稿「マンジュ国〈四旗制〉初建年代考」p.18・p.29[注 31)])ので、〔入貢年表〕のように 訂正しておく。
23)以下の叙述は主に前掲三田村泰助「ムクン・タタン制の研究」pp.167-181、および前掲和田清「明末に於ける 鴨緑江方面の開拓」pp.529-535 を参照した。
24)詳細は孫文良「礦税監高淮乱遼述略」[初出 1982](『満族崛起与明清興亡』1992)pp.173-190 参照。 25)熊廷弼「撫鎮棄地啗虜疏」(『籌遼碩画』巻一所収)参照。 26)前掲和田清「明末に於ける鴨緑江方面の開拓」pp.532-533 参照。 27)今西春秋訳注『満和蒙和対訳満洲実録』1992、pp.89-92 参照。 28)ヌルハチは万暦三二年、建州勅書五百道を尽して二個の朝貢団(五月分三九九名、六月分百名)を派遣したが、
六月分の朝貢団は万暦二二・二三年の欠貢分を補進したとされる(〔入貢年表〕)。補貢というと、万暦二九年 のそれが「補進二貢」、つまり万暦二七・二八年分の補貢であり、さらに万暦三九年のそれが「双賞」、つまり 補貢によって万暦三七・三八年分の貢賞を受けた(〔入貢年表〕)ように、通常、欠貢年度と補貢年度は前後連 続したと考えられるから、万暦三二年六月の補貢例は不可解という他ない。
   『明実録』によれば、同じ万暦三二年の閏九月に海西者剌衛の一八七名、翌一〇月に友帖衛の一七六名、計 三六三名が入貢しており、後者の朝貢団が万暦二七・二八年の欠貢分を補進したとされている。万暦二七・ 二八年度の欠貢がハダ国の併合に起因することは論を俟たない。これら海西二衛の入貢は、実はヌルハチがハ ダ国併合時に掌握したハダ勅書三六三道の全数を投入した結果である(拙稿「明末の海西女直と貢勅制」『立 命館文学』579、2003、p.57)。
   結局、万暦三二年における建州・海西の進貢は、どちらもヌルハチの派遣に係り、二個の朝貢団から構成さ れ、所有勅書の全数を行使したという三点で、すべて軌を一にする。ヌルハチがことさら万暦二二・二三年分 の補進と称して朝貢団を派遣したのは、それによって三九九人に補貢二百人(百人の二年分)を加算した計 五九九人分の貢賞を獲得できたからであろう。なお、後注 33)も併せて参照。
29)前掲拙稿「ジュシェン - マンジュ史箚記二題」pp.19-24、同じく拙稿「八旗創設期のグサ分領制とその基底に ついて――特に salibumbi との関連から見た――」(『立命館東洋史学』43、2019)pp.4-5 参照。
30)『万暦邸鈔』万暦三五年正月条に「礼部侍郎李廷機劄差通事序班李維葵、詣奴児哈赤等営宣諭」とあり、同書 万暦三六年三月条に見える礼部主事鄭振先の劾奏にも「李廷機在部、遣序班李維葵、往与私講。不奉朝命、擅 自通夷」とある。また、同じ三月条に見える鄭振先の劾奏に対する李廷機の反駁もあわせて参照。
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420171 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
31)『国榷』は万暦三四年一二月四日にシュルガチが入貢したとするが、これが入京した日付なのか、貢賞の頒給 を受けた日付なのかを明記しない。かりに入京の日付であったとすると、入貢女直人は通例四〇日の北京滞 在が許された(詳細は後述する)ので、シュルガチは一二月だけでなく、翌年正月中旬まで北京に滞在した ことになる。これに対して貢賞頒給の日付であったとすると、通常三日間の会同館開市(万暦『明会典』巻 一一一、礼部六九・給賜・外夷上)を経て辞朝の運びとなるので、北京退出は一二月八日以後であった。ヘ トゥ = アラ・北京間の旅程は最短でも二〇日前後は要し、一二月中は帰路の途上にあったと思われる。な お、ヘトゥ = アラ・北京間の所要日数については前掲拙稿「マンジュ国〈五大臣〉設置年代考」pp.70-71[注 37)・38)]を参照されたい。
32)ヌルハチ・シュルガチ兄弟の葛藤に関する叙述は、主として前掲三田村泰助「ムクン・タタン制の研究」 pp.130-144 に従った。
33)たとえば『明実録』万暦三六年九月辛卯条によると、礼部がヌルハチのハダ勅書混進を「安くんぞ其の詐を 逆しりぞけざるべけんや」と指弾したのに対し、万暦帝は「補貢夷人は、兵部 遼東の鎮(総兵官)・撫(巡撫)官 に行文し、査明放入せしめよ。如し呑幷冒頂等の項有らば、混進を許さざれ」(〔入貢年表〕)と命じた。この 他、傍証としては『明実録』万暦三六年一一月辛卯条に「給賞海(西)建(州)補貢夷人」(内閣文庫本)、万 暦三七年四月己未条に「(奴酋)自叩関補貢之後、憤驕日甚」などとある。
   このように万暦三六年の進貢は確かに補貢であった。楊道賓の二疏「海建夷貢補至、南北部落未明、謹遵例 奏請、乞賜詰問、以折狂謀事」・「東夷併貢、籌西戎領賞有例、乞酌定入京留辺之数、以懐遠安内事」(いずれ も『皇明経世文編』巻四五三収録)によると、ヌルハチの率いた朝貢団中の二百名が万暦二六・二七年分の補 貢であったという。〔入貢年表〕に照らして、万暦二七年以外に二六年までも欠貢年度に加える根拠は存在し ない。万暦三六年の朝貢が建州勅書とハダ勅書の全数を投入しようとした点で、前注 28)で言及した万暦三二 年六月度の補貢と形式を同じくし、万暦三六年の場合は二百人に対する双賞の獲得を見込んだのであろう。
   ヌルハチにとって保有勅書の有効活用が最大の関心事である限り、補貢に際して万暦何年を欠貢年度と称す るかは二義的問題でしかなかった。なお、参考までに補記すれば、イェヘ国による万暦四六年の朝貢団(六三六 人=貢勅六三六道)は万暦三五・三六年分の補貢であった(『明実録』万暦四六年正月己亥条)が、欠貢の事 実を確認できるのは三五年のみである。イェヘ国所有の全貢勅が六三六道であってみれば、ヌルハチの補貢事 例との共通性は歴然たるものがある。
34)玉河館については松浦章「明清時代北京の会同館」(『神田信夫先生古稀記念論集 清朝と東アジア』1992) pp.362-365 参照。
35)ここでは東아시아学術院・大東文化研究院『燕行録選集補遺 上』(成均館大学校出版部)2008 所収の崔晛『朝 天日録』を用いた。
36)前掲拙稿「マンジュ国〈五大臣〉設置年代考」p.70[注 36)]参照。
37)前注 31)に同じ。
38)前注 31)でもふれたように、領賞後、規定では三日間の会同館開市が許されたので、シュルガチの北京退出は
一二月二八日頃であった。 39)『明実録』万暦三六年一二月庚辰(二七日)条によると、「頒給海西弗思木等衛女直夷人荘台、看只木等
二百二十一名貢賞如例」とある。これがイェヘ国派遣の朝貢団であったことは前掲拙稿「明末の海西女直と貢
勅制」p.57 参照。 40)『万暦邸鈔』万暦三六年九月条に載せる刑科給事中彭惟成の上疏に「近聞海西建夷一千五百人蜂擁入関。......」
とあって、万暦三六年の女直人入貢者数は千五百人と誤伝され、かつそのように邸報にも掲載されたのである
から、朝鮮の冬至使はこの種の邸報を見たか、それに依拠する「物議」を聞いたのであろう。 41)参考までに(2)を書下しにすると下記のようになる。
  「近日 各道の科臣 相臣を攻撃すること尤も急にして、弾章虚日無く、李廷機を晁錯の釁を七国に開くの罪に比
するに至る。蓋し前日に夷人入貢するの時、沿路各駅の車を発して逓送するの際、駅卒・居民参半して車を出
だす。建夷驕横にして、一車発する所の処、銀六、七両を徴す。駅民侵暴に堪えず、相継いで流散す。廷機 官
   を差わして暁諭し、其の約束を定め、其の車価を減ず。建夷忿怒し、執りて以て辞と為し、絶ちて入貢せざる こと
者数年なり。今冬始めて来貢を為し、而して数は一千五百人に至り、車価を侵徴すること倍して二十余両に至
る。居民・駅卒 家を売るも給た りず、継いで以て逃躱す。   且つ遼東開原衛以北、土地沃饒にして、居民殷富なり。建夷 以為えらく「開原以北は皆我が地なり、若し居民
を撤還せざれば、則ち宜しく地税を以て我に輸いたすべし、然らずんば則ち尽く殺して遺す無からん」と。李成梁 おく
屢次題奏し、歳々地税八千両を給す。広寧の銭粮足らざれば、成梁 常に家財を以て厚く建夷に遺り、務めて其
の怒を止む。而して又た軍卒の月銀を剋減して、其の不足を補う。故に軍卒 之を怨む。
  科臣 参論して、車価を削減し、地を捐てて悔りを受くるを以て、廷機・成梁の罪案と為す。然れども中国已に
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420106 此の桀虜横恣の勢を制する能わずして、瞋目一怒すれば、朝廷震恐す。他かれに地を奪われ税を収むれども、而れ
きわ ども敢えて討めず、害を一路に貽せども、而れども敢えて問わず。成梁の棄地給税、固り罪有るなり。廷機の
車価を削減するに至っては、亦た容さざるに出づ。已にして等しく論ずるに開釁の罪を以てするは、亦た冤な
らずや。」
   上掲の内容中、特に棄地啗虜事件に関わる第二段の「且つ遼東開原衛以北」から「故に軍卒 之を怨む」まで
の記述は、事実と齟齬する部分が大きい。「遼東開原衛以北」は無論、寛奠等六堡辺外の錯誤であろうし、「歳給 地税八千両」はヌルハチが棄地事件以前に、寛奠等六堡辺外への漢民入植と引き替えに得た代償銀八百両を誤 伝した数字であろう。八百両の内実については、前掲三田村泰助「ムクン・タタン制の研究」pp.127-130 参照。
42)前掲和田清「明末に於ける鴨緑江方面の開拓」p.537 参照。 43)前掲三田村泰助「ムクン・タタン制の研究」p.178 参照。
44)車価とは注 41)に掲げた書下し文によれば、朝貢団を逓送するために、進貢路沿道の駅卒と居民に朝貢団が利
用する車輛を供出させる際に、駅卒と居民から車輛単位で徴発してヌルハチ等の女直朝人貢団に供与した銀両 を意味した。車価の発端については楊道賓の奏疏(『皇明経世文編』巻四五三所収「建酋兼併属夷、憑凌属国、 罪状已著、乞速頒文告、厳飭武備、以遏乱萌事」)に、「廩給騎馬而外、其始毎車束十夷装、毎夷給一疋布。若
ととの 所謂恤差銭者。而其後折布為銀(騎馬を廩給する而外、其の始めは車毎に十夷装を 束 え、夷毎に一疋布を給
す。所謂恤差銭の若き者なり。而して其の後に布を折して銀と為す)」とある。要するに、もとは入貢者の旅 装用に給付した布疋が後に折銀され、その負担が駅卒に転嫁されたというのが、車価問題の実相であったよう である。前記楊道賓の奏疏、および李廷機の礼部主事鄭振先に対する反駁(『万暦邸鈔』万暦三六年三月条) によれば、当初一輌当り銀四、五両であった車価がヌルハチの要求によって一七、八両にまで増額されたため、 豊潤(=北京東方)等五駅の牛頭于大秀らが窮状を李廷機に泣訴するに至ったという。車価がいつ頃から始 まったのかは不明であるが、『明実録』万暦三〇年六月戊申条に見える蕭大亨の上疏に「去歳、建州の奴児哈 赤 二貢を補進するが如き、咬思何等の夷、三河(=北京のやや東方)各駅に於いて布匹・鞋襪を索要し、正額 に倍す」とあり、いまだ折銀はなされていないものの、万暦二九年頃には存在したようである。
45)満文老檔研究会訳註『満文老檔I 太祖1』1955、pp.8-9 参照。前掲の楊道賓「海建夷貢補至、南北部落未明、 謹遵例奏請、乞賜詰問、以折狂謀事」は、巡撫趙楫・総兵官李成梁の会題を引いて、「遼陽管副総兵事参将呉 希漢、本年六月二十一日に撫順所に至り、奴・速二酋に宣諭し、辺に上りて碑を豎て、馬を宰して盟誓す」と 述べ、『満文老檔』のいう立碑・誓約の相手と日付がそれぞれ呉希漢(=呉副将)と六月二一日であったこと が判明する。日付については、もとより二一日を採るべきであろう。
46)『明実録』万暦三七年二月辛巳条に見える遼東巡按熊廷弼の奏疏「勘明撫鎮棄地啗虜事」、および前出の熊廷弼 「撫鎮棄地啗虜疏」参照。
47)熊廷弼「建夷帰疆起貢疏」(『籌遼碩画』巻一)参照。前注 33)に引く『明実録』の記事「(奴酋)自叩関補貢 之後、憤驕日甚」は万暦三七年の四月頃、つまり初夏の情況を述べていて、熊廷弼の見方を裏づける。『東夷 考略』「建州攷」万暦四二年正月条に「流聞すらく、蜂蜜を売らず、以て糗糧に備えること五、六歳に幾しと。 志小さきに在らず」とあり、この流聞が正確な情報だとすると、万暦四二年の五、六年前、すなわち停貢が発 令された万暦三七年(の特に秋冬)に、ヌルハチは食糧の備蓄を開始したのであり、停貢に対する一種の反応 であったと解される。蜂蜜の備蓄に関しては『明季北略』巻一「蕭子玉偽称都督」も参照。
48)前注 47)の熊廷弼「建夷帰疆起貢疏」に同じ。 49)旧ハダ耕地の再開墾問題を含むヌルハチに対する明側の経済的干渉については、滕紹箴『努爾哈赤評伝』
1985、pp.127-133 が詳述する。 50)前掲三田村論文(p.273)は『開原図説』巻下「海西夷南関支派図考」の「自猛骨孛羅死、吾児忽答羈留不得
帰、南関旧寨二三百里内、杳無人跡将十余年。近四五年、建酋且遣夷北来、修復旧者哈・王胡子両小寨。南関 之地漸化為建州」に依拠して、ハダ国が一旦併合された万暦二七年から「十余年」を経た同三七年頃からハダ 故地の再開墾を開始したと説く。
   しかしながら、『開原図説』の成書年代は万暦四六年(1618)頃と推定され(傅吾康編『明代史籍彙考』 [Franke,Wolfgang., Introduction to the Sources of Ming History, Singapore, 1968]p.229)、また同『図説』記
載の最も晩い年次も万暦四六年(巻上「撫安堡図」・「白家衝堡図」・「三坌児堡図」の各図内に「万暦四十六年、 東夷(=後金国)入犯尅去」との注記がある)であるから、これを起点に逆算すれば「近四五年」とは万暦 四一・四二年を指すことになり、かつまた万暦二七年(あるいはハダ国が最終的に滅亡する二九年)から「十 余年」を経たという記述とも矛盾しない。
51)『満文老檔』(満文老檔研究会訳註『満文老檔III 太祖3』1958、pp.1097-1103)に、ヌルハチが明の「(遼東) 地方の主 ba i ejen」(周遠廉『清朝興起史』1986、p.172 によれば遼東巡撫の郭光復を指す)に宛てた長文の返 信を載せる。その内容は逃亡者の隠匿と牛馬の窃盗を責め、人畜の返還と盗賊の押送を要求する「地方の主」
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42079 ヌルハチの対明関係とその展開過程について
の書信(万暦四二年六月一七日付)に対して、ヌルハチが事実を踏まえつつ、具体的かつ整然と反論するもの で、その文言に尊大さは微塵もない。この冷静な対応は、「退地定界」直後におけるヌルハチの隠忍自重をよ く物語る。
付記
 本稿は 2021 年度立命館史学会大会での発表「朝貢から見たヌルハチの対明関係について」を大 幅に改稿加筆したものである。
                                        (本学文学部非常勤講師)
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I

 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
40■
ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
1

るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
3

べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
4

レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
5

I

 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
40■
ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
1

るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
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べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
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レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
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 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
40■
ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
1

るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
3

べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
4

レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
5

I

 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
40■
ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
1

るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
3

べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
4

レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
5

I

 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
40■
ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
1

るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
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べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
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レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
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 遊牧社会・モンゴル国の食文化
島崎美代子 日本福祉大学福祉社会開発研究所
客員研究所貞
モンゴル国の首都・ウランバートル市は居住人口96万5千人に達し、全人口の37% を超えている(2005年)。そこでは、都会風の生活・食習慣が一般化しつつあると云え
るであろう。しかし、社会の基底には現在でも遊牧業があり、都市居住者もまた、「故
郷」との繋がりをもっている人々が多い。そこで、モンゴル国の食文化の典型として 遊牧民の伝統的生活・食文化を取り上げたい。
1はじめに‡ モンゴル国の地勢は、大きく分けると4つの地帯-森林、森林草原、乾燥草原、砂
漠-が、東西にのびている。中央部、西部に山脈・山塊がいくつか、東西に走り、ま た、砂地、湿地、潮などが散見される。川は山脈・山塊から流れ出て北方・西方の国 境を超え、 ̅また、砂漠・砂地の湖へ流れ込む(図)。標高は全体に高く、ウランバート
ル市は1300メートルを超え、山脈には3000~4000メートル級の山々が聾える。降雨 量は年間平均200~220ミリときわめて少ない。また、気温の年間較差は激しく、夏は 平均20度前後で快適であるが、冬は零下30度を下まわるところが多い。
このような厳しい自然条件のもとで、遊牧業が営まれているのである。そこで以下、 4論点にわたって検討を進めたい。

 9)◆ 1(氾‘ 110 執
・遠藤 、...・萱装 転∋~
1 ′ゾ ≠
120. l
ヽ_. 1 1 5 0 ・ 
′、博

憲 p隠
了 ウルランノ′It国ト ルノ 、
Lノ
車軸ノ●ノ 警 /へ ・ノ
=_.\ 昔

し ・、 ・、 ・ヾ
5町 
=・ジ・.・こ
中  華  人  民  共
図.モンゴル国‘」の\地勢 日日日日 鉄道
△  山頂(メートル) 沫探探 砂地~砂漠
.豆了ゴ
、 ■- ●、 -  ■一 一 ■     
、 ・一 ・、 .こ レ ン ‘ ̅ ‘ ̅ ■
文献リストNo.2、p.3の図に加筆したもの
和国
ビ 莞 ◎首都ウランバートル
(標高1351メートル) ○産業都市
    チョイパルサン
    バガソール
ダルハン エルデネット
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ソ / ヶぅ欄
1 トン

 il.遊牧社会としての特徴l モンゴル国遊牧業の特徴は、まず第1に、自然環境と共生して行なわれる5宙の遊
牧が基本である。すなわち、らくだ、馬、牛、羊、山羊の5種類を飼育するが、その 殆どがモンゴル国の原生種である。たとえば、馬はモンゴル鳥、牛はモンゴル牛、ま たは、バイドラック(毛の長い“やく”の種類)で、零下30度の野外で一冬を過ごす ことが出来る。羊・山羊には改良品種も多いが、いずれもモンゴル国内で品種改良し
たものが多く、寒さには強い。北方の山林地帯には、トナカイ中心の遊牧もあるが、一 般的には、上記5音の頭数比率を地帯の地勢に応じて変えている。南方・砂漠ではら くだ頭数の比率が増え、東方・平原で湿原、川の流域、窪地が多いところでは馬・牛、
半砂漠に移行する・岩山の麓などには山羊、そして典型的草原では羊、の比率が大き いという「棲み分け」=「同位社会」の形成・連結という自然環境との共生のもとに、
牧民世帯あたり5音のバランスがちがいを見せるのである。(写真1~4) モンゴル国遊牧民は通常、2世帯で「草原共同体」を組み、成人男女が各々二人 で、子どもたちの手伝いを加えて、5種類の家畜群を四季折々の自然環境のもとで遊牧
している。(写真5)
写真1.らくだ群(夏)

 写真2.馬群(夏)
写真3.バイドラッグ(夏~秋)

 写真4.羊・山羊群(冬)
写真5.「草原共同体」、夏の設営地

 12.四季と遊牧生活i モンゴル国の四季の移り変わりは鮮やかである。2月・凍てつく新春が3月半ばに
三寒四温となって、雪が溶ける・凍るが繰り返されて風が吹き荒れる。4月末~5 月半ばになると春・夏が同時に訪れ、草・潅木が緑の芽をふき、家畜たちは生気を増 し、3~4月に生まれた新しい生命が育っていく。そして、6~7月は夏、雪は消える
から、水辺をもとめ、川、泉、井戸の利用が必要になる。8月がすすむと草の色が費 色味をおび、9月にはいると山には初雪が降る。そして、冬の季節一北風と零下の気 温。これがモンゴルの四季の移り変わりである。遊牧民はこの四季に応じて、年間2 ~4回の設営地の移動を行なう。冬には丘の南斜面に、夏には川・泉・井戸の近くに、 ゲルをたたみ、5畜を追って移動するのである。その位置は慣習として、毎年決まっ ているが、気候の変動-たとえば、辛魅・降雪の多少、-などによって、例年とは 異なって、草、枯れ草と雪をもとめて北寄りへ移動する、など、ゆるやかに、草植状 態や水・雪の多少によって、移動の領域を変更する。これも慣行として認められてい るところだという。
その他生活に必要な社会インフラは、ソム・センターに、定住地と併せて設置され ている。たとえば、学校、病院、家畜病院、市場、行政機関、など。遊牧民たちは必 要があるときに、ソム・センターへ駆けつける。また、高齢の両親、学齢期のこども たちはソム・センターの住居~寮に居住していることが多い。このような遊牧業とソ ム・センターに定置された社会インフラ利用を組み合わせる生活の型を「半定住」と 呼んでいる。
13.四季の食生活l モンゴルでは、春夏秋冬に「旬」というべき食材がある。春から夏にかけては「白
い食物」、秋から冬にかけては「赤い食物」と呼ばれている。前者はさまざまな乳製品、 後者は肉類、とくに、保存用に乾燥した肉類、が主要な食材となる。
「白い食物」には、馬乳酒、ヨーグルト、アロール、■さまざまなチーズ類、などがあ る。「赤い食物」には、牛肉、乾燥した牛肉(骨付き)がある。これらの他に、小麦粉 から作るパン類が数種類あり(あげパン、ナンのような円形のパン、その他)、また、 夏には生鮮野菜、冬には酢漬けの野菜(ピクルス)、その他、馬鈴薯、にんじん、キャ
ベツなど保存のきくもの、などを食べる。しかし、主要食品は、家畜生産物で、乳製

 品・肉類が中心になっている。(写真6~9) このように、野菜、果物が不足のゆえか、死因となる病気を質問すると、1、脳梗
塞、心臓病、2、肺炎、3、消化器系の病気(とくに子どもの場合)、があげられるの が通例である。平均余命は、65,21年(2005年、「統計年報」)と非常に短い。上記の食 生活と厳しい気候とが作用しているのであろう。なお、とくにウランバートル市の貧 困地区には、乳幼児の「くる病」が多く、社会問題となっている。日照不足に摂取ビ タミンD欠乏が主原因とされている。小児医療、リハビリ、給食、食料配布(ビタミ ン入りビスケット他)などが、コミュニティに基礎をおいて実施ざれているが、まだ、 その活動は充分でない。
写真6.夏の食卓

 写真7.チーズ類の加工(保存用のものも含む)
写真8.乾肉を加工乾燥 写真9.冬の食卓

 j4.食生活と家族・コミュニテ宥 5種類の家畜を遊牧によって飼育するのであるから、生活時間を自分たちで決める■
ことは出来ない。いわば家畜の都合によって、動かなければならない、のである。と くに、父親は、家畜の飼育の暇をみてゲルにもどり、食事をとることになる。母親は、 ゲルの真ん中にすえてあるストーブでに、スープ(肉と野菜と)の鋼をかけて、何時 でも食べられる準備をしておく。また、馬乳酒、ヨーグルト、チーズ類もつくる。そ のほか、あげパン、丸パンをつくり、うどんを煮る準備も彼女の仕事である。子ども
たちにも、それぞれ仕事がある。夏は川・泉からの水汲み、燃料になる家畜の糞拾い、 そのほか、羊・山羊の群れの誘導、など。春先には、生まれた羊・山羊の仔の世話(暖 かいゲル内、また、専用ゲル内へつれていく、など)、また、幼い弟・妹の世話も。(写 真10~11)
このように、生活時間帯はバラバラであっても、家族・親戚、近隣共同体、同窓生・ 友人・「ふるさと」共同体の連携・協力には、驚かされる。見知らぬ「客」のおもてな
しの篤さは、この延長線上にあるのだろうか?

 写真10.子どもたちが分担する作業
写真11.水汲みの作業

 1おわりにr モンゴルの人々の心情は、かつての日本人の生活・意識を思い起こさせる、と多く
の日本人はいう。心情には確かに共有するものが多く、親近感を呼び起こされるのが 嬉しい。だが、遊牧社会と農耕社会との決定的な差異を見落としてはならないであろ・
う。
参考文献
*小貫雅男、1993、「モンゴル現代史」(「世界現代史、4」)、山川出版社 *小長谷有紀、1992、「モンゴル万華鏡-草原の生活文化」、角川選書224 *今岡良子、2005、「乳幼児の発育異常と貧困、国内移住について」、(「モンゴル国
おける貧困家庭児童の家族に関する研究2004年度、COEプロジェクト調査報告書」
第4章) * 島崎美代子・長沢孝司、1999、「モンゴルの家族とコミュニティ開発」、日本経済評
論社

おいしく食べて生き生き健康
山本 隆 大阪大学大学院人間科学研究科 行動生態学講座行動生理学研究分野
1. はじめに 私たちヒトを含めてすべての生き物は食べなくては生きていけない。すなわち、食べることの
本来の目的は体の成長、発育、代謝、呼吸、血液循環、運動など生きていくうえで必要な栄養素、 エネルギー源などを摂取することにある。このことを食の一次機能とよんでいる。食の二次機能 は、快楽を与えることである。食べることは本来楽しいものだということである。いくら体にと っていいものでもおいしくなくては食べられないといったことでもある。第三の機能は、食べ物 (食材)によっては体の機能を高めたり、悪い体調を改善する薬理的作用を有するということで ある。これを食べると脂肪を燃やしダイエット効果があるとか、血液がサラサラになり血圧を下 げる効果があるといったものである。そして、第四の機能は、人の和を作ることである。本来食 べるという行動は、気心の知れ合った者、生活を共にする者が席を同じくして語り合いながら楽 しく食べることなのである。
2.おいしさを感じるしくみ おいしさは、いろいろな要因にもとづくが、中でも重要なのは体が求めているものを摂取した
ときの快感である。例えば、のどが乾いたときは一杯の水がとてもおいしい。肉体運動をしたあ とは、エネルギー源であるブドウ糖を含むあめやチョコレートなどの甘いものが欲しくなる。ま たこのとき、クエン酸などの酸味物質がとてもおいしくなる。また、食塩が欠乏すると、普通な ら避ける程の濃い食塩水がとてもおいしくなる。動物を用いた実験であるが、必須アミノ酸の1 つであるリジンが欠乏すると、リジンを盛んに摂取するようになる。しかし、リジン欠乏状態が 解消されるとそもそも味のよくないリジンには見向きもしなくなってしまう。
食物摂取時の感覚には味覚、嗅覚、温度覚、痛覚、触覚、歯からの感覚などがある。これらの 感覚は、食物の物理的、化学的性状の分析をするためのものである。おいしさ・まずさというの は、独立した感覚ではなく、前述の種々の感覚情報が脳内で統合されて生じる快感・不快感であ る。すなわち、食物や食品を味わうとき、それが複雑な味であるほど脳での分析は困難になるが、 おいしい・まずいの判断はほとんど瞬時にできる。特に扁桃体は、種々の感覚情報の入力を受け、 分析することにより、摂取している食物が自分にとって都合のいいものか避けるべきものかの価 値判断を行う役割もするとされている。扁桃体で「これはいい」と判断されると、その結果は視 床下部に送られて、β−エンドルフィンなどの麻薬様物質を放出させたり、中脳の腹側被蓋野(報 酬系)に送られて、ドーパミンという物質を放出させてもっと食べたいという摂取欲を亢進させ
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るのである。実際に食べるか食べないかは、視床下部外側野の摂食中枢を活性化するか、腹内側 核の満腹中枢を興奮させるかで決まる。
3.好き・嫌いはどのようにしてできるのか 食べ物の好き嫌いは、繰り返しの摂取時に感じた快・不快をもとにした学習の結果生じるもの
である。それらは嫌悪学習と嗜好学習に大別され、そこにさまざまな経験などが重なり、好き・ 嫌いが形成されていく。
1)嫌悪学習 ある食物を食べたあとで不快な経験をすると、その食物の味やにおいを記憶に留め、嫌いにな
る学習である。特に食後に吐き気を催し体調が悪くなると、一回の経験で長く強く持続する嫌悪 を獲得する。体を危険物から避けようとする防御反応とも解釈できる。食べたくないものや、食 べたくないときに、無理強いされたりすると(学校給食のときなど)、いやな思い出となってその 食物を嫌いになる場合もある。味、におい、噛み心地などがとてもいやなものであった場合も、 不快感と結びつき、嫌いになる。一方、体の発育成長に伴って要求レベルが変化し、好きであっ たものが徐々に受け付けないものになる場合もあろう。
2)嗜好学習 飲食物摂取後に快感を伴うとその時食べていたものが好きになり、おいしいと思うようになる
学習である。例えば、病気で入院しているときに食べたものが好きになったという人がいるが、 これは悪化していた体調の回復過程で摂取した食物が好きになるということで、その食物の味や においと体調の好転を連合学習したことによるのである。また、家族でギョーザを作ったり、一 家団欒、お祝い事などの楽しい思い出や、母親の手作りの味といった愛情豊かな思い出と結びつ いた食物が好きになるのもこの学習である。一方、体の発育成長老化に伴って、あるいは慣れや 嗜癖により嫌っていたものが徐々に好きになる場合も考えられる。
4.好き・嫌いのできる時期 我々の行った大学生を対象とした調査では、幼稚園、小学校低学年で約 80%人に嫌いな食べ物
ができていて、それが大人になるまで続いていることがわかった。好きになった時期については、 約 55%の人が幼稚園、小学校低学年と答えている。年とともに食経験が拡大し、好きな食べ物が 増えるためか、前述の嫌いになった時期に比べて好きになった時期はより高年齢にまで広がって いるともいえる。
5.食べず嫌い 関西の人には納豆の嫌いな人が多い。理由を尋ねると、においがいやだから、ネバネバして気
味が悪いから、親が食べないから、といったことで、実際には食べたことがないのに嫌いなもの
2

と決めつける、いわゆる食べず嫌いの人が多い。一般的に、忙しくて時間のない母親は、子供が 嫌がると、うちの子はこれは嫌いだと決めつけ、さっさと食べてくれる好きなものだけを与えが ちである。また、親の嫌いなものは食卓に上がらない。食べ物の好き嫌いは幼児期に親が決めて しまう可能性が大きい。
6.狭義の味覚、広義の味覚 味覚発達の生理学を考えるためには狭義の味覚と広義の味覚に分けて考察する必要がある。 狭義の味覚とは、味を感じる基本的な能力、その人の有する味覚の感度である。口の中に食べ
物が入ると、口の中に溶出した化学物質により味蕾が刺激され、その結果生じる神経情報が味覚 神経を通って脳に送り込まれ、処理されて味覚反応が生じたり、味を感じたりするのである。こ の基本的なハードウェアが出来上がり、基本的な機能を示すことが狭義の味覚である。この機能 の発達はきわめて早い。生まれてすぐの赤ちゃんの口の中に、砂糖水を少し入れると、にこやか な顔をしてペチャペチャと口を動かして飲み込もうとするが、すっぱいクエン酸を入れると、顔 をしかめて明らかにいやな表情を示す。生後3ヶ月目には、どの味も立派に味わうことができ、 味覚の機能はほぼ一生の間それ程衰えることなく続く。
広義の味覚とは、砂糖水、塩水、酢といった狭義の味覚の感度ではなく、複雑な味の食品や食 物に対する味の評価や嗜好性の発現のことである。このときは味のみならずテクスチャーやにお いの評価も同時に行っている。幼児期の食経験は味覚を発達させるといわれるが、口の中の味細 胞が受け取る能力がよくなるのではなく、脳での識別能力、判断力がよくなるということである。 これは脳の発達が基本的に完成する 3〜6 才の間にいかなる食経験をしたかに大きく依存する。そ して、もっと年をとり、経験を積み文字通り、「酸いも甘いも噛み分けた」あとでは、食通といわ れるような域に到達するのである。
7.味覚の発達と学習 嫌悪学習や嗜好学習を獲得したあと、学習した食物の味に対して脳細胞は長期的に大きな活動
を示すことが知られている。これを脳細胞の可塑的応答性変化という。このことは、積極的にお いしさのレパートリーを広げるためには、数多くの食べ物を積極的に食し、脳細胞を訓練する必 要のあることを示している。
脳は「新しい脳」と「古い脳」に分けられる。新しい脳とは、ヒトでよく発達している大脳と 大脳皮質のことで、高次の認知機能に関わる場所をいう。古い脳とは大脳辺縁系のことで、喜怒 哀楽の感情とその記憶、それに伴う行動発現に関係する。古い脳は、下等な動物から霊長類に至 るまで共通にみられる快の情動と不快な情動の発現およびその記憶にかかわるところなのである。 ヒトの脳は3才頃までは古い脳の働きが主導的である。つまり、幼児期までの味覚は快・不快の 情動を主としたものである。
新しい脳が充分発達し機能するのは3才以降である。3才頃までの幼児期には、何を食べ、そ れがどういう匂いや味がしたのかということは思い出として永続的には残らないが、繰り返し食
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べた食物の味や匂いとそのときの情動は一体となって無意識のうちに古い脳に保持されている。 3才以降にそれは大脳皮質に移され、長期に保存されるようになる。例えば、みそ汁やだし味を 使った日本食本来の食べ物を経験し、快情動として古い脳にインプットさせておくと、ご飯の匂 い、かつお節の香り、みそ汁の匂い、台所から聞こえてくるネギを刻む音などと、食事の場面、 家族団欒の楽しさなどを結びつけた記憶として残り、いずれ大脳皮質に移されて大人になっても 懐かしく思い出されるのである。
8.食育を考える
近年、若者を中心に食の乱れが指摘されている。私が調査した約 100 人の男女学生のうち、自
分の食は乱れているとは思わないという者はたったの1人であった。乱れの具体的な内容は多い ものから順に 1)朝食を抜く 2)食事時間(回数)が不規則 3)ファーストフード、コンビ ニ食、インスタント、レトルトですます 4)食べ物の偏り、ワンパターン、マンネリ化、同じ メニュー 5)ビタミン、ミネラルを含め栄養のバランスを考えない、などである。
以上のように食が乱れていることは多くの人が自覚しているのだが、その大きな理由は家族の もとに離れて生活をすることに基づく経済的な理由と学生生活特有の多忙性に根ざすものである。 しかし、気持ちとしては何とかしなくてはならないと考える人が多く、栄養の科学的知識を増や し、規則正しい生活をし、手作りの料理にも挑戦したいと述べている。
すでに述べたように、幼児期の食経験、もう少し延長して考えるなら小学校低学年までの学童 期(10 才位まで)に至るまでの食経験は、大人になっても長く続く食べ物の好き嫌いを形成する 大きな要因である。すなわち、母乳から離乳食に切り替わったとき、家庭の味から家庭以外の味 を経験する給食のときには初めての味を数多く経験するのであるが、このとき不快感ではなく快 感と結びつく学習をしておく、あるいは繰り返しの食経験で慣れておくことが重要なポイントと なる。この時期の摂食は、自らの意志で選択するのではなく、与えられたものを受動的に食べさ せられるものであるから、子どもを教育する前にまず母親を教育しておく必要がある。
自らの意志で食の選択ができるようになってからは、食に対する前向きの姿勢、好奇心が大切 である。調理にも関心を持つようになる学童期、とくに小学校高学年(10 才以上)では、仲間と ともに実際に調理に参加し、食材のこと、調理技術などを楽しく学びながらお料理を作ることに より、手作りの喜び、出来上がったものを皆で一緒に味わう楽しさなど一石で二鳥も三鳥もの収 穫がある。この際とりわけ大切なことは、食べることの有り難さ、食べ物はお金で買える他の商 品とは違い貴重なもの、有り難いもの、粗末にしてはならないものだという道徳観念を植えつけ ることである。
9.おわりに 最初にも述べたようにおいしく味わえることは幸せなことである。単に精神的な満足、安らぎ、
至福感をもたらすだけではなく、脳内にβ-エンドルフィン、カンナビノイドドーパミン、各種 の摂食促進物質などが放出され、脳は生き生きと活性化し、自律神経系、内分泌系の活動はスト
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レスを抑え、免疫能を高めまる。100 才以上の長寿者に長生きの秘訣を尋ねるとその第1位は「好 き嫌いなく何でも食べる」で、その第4位には「腹八分目にする」がくる。おいしく食べること は重要であるが、体のためには腹八分目でストップする強い意志が必要であることを意味してい る。
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