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蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
佐伯, 弘次 九州大学大学院人文科学研究院歴史学部
 https://doi.org/10.15017/1650926
出版情報:史淵. 153, pp.1-28, 2016-03-18. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:
権利関係:
   
蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
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蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
はじめに
高麗と日本の関係は、国交こそなかったが、長い関係を有している。とくに一〇一九年の刀伊の入寇によって、 その関係は深まり、十一世紀後半になると、日本の商人や役人たちが高麗と交易をするようになる。十三世紀前 半には、進奉船の存在が知られるが、同時期には、初期倭寇の活発化により、国書のやり取りが続いた。しかし、
(( さらに関係が深くなるのは、十三世紀後半の蒙古襲来期であり、今度は敵対関係に変化するのである。
(( 蒙古襲来に関しては、多くの研究があり、日本と高麗の関係についても多くが明らかにされている。モンゴル
皇帝フビライによる日本招諭、文永十一年(一二七四)の文永の役、建治年間における日本側の対応、弘安四年
(一二八一)の弘安の役弘安の役後の元による日本招諭といった流れで、日元関係は推移する。鎌倉末期の「沙
(( 汰未練書」に「、蒙古トハ異国ムクリノ事也」とあり、鎌倉末期に蒙古は「ムクリ」と称されていたことがわかる。
佐伯弘次

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(

近世には、「むくりこくり」と蒙古・高麗をセットで表現することが多くなるが、鎌倉期に「こくり」で高麗を 意味する史料はまだ見つかっていない。やはり蒙古襲来=文永・弘安の役で日本に襲来した主体はモンゴル(元) であるので、同時代の日本におけるモンゴルのインパクトは強大であったが、高麗はその陰に隠れて認識が薄かっ
た。
本稿では、日元関係を前提として、蒙古襲来(日元交渉)以降の日本と高麗との関係について通時的に概観し、
日本の高麗観の問題も含めて考えてみたい。
一 蒙古国書の到来と日本 高麗関係
(一)至元三年フビライ国書と高麗国書
一二六六年(至元三年・文永三年)八月、フビライ日本国王宛の国書を書いたことが、日元交渉の始まりで
ある。この国書は、二度目の使節である高麗使潘阜一行によって日本に伝えられ、文永五年正月に大宰府に到着
した。大宰府(武藤氏) 鎌倉幕府を経由して、文永五年二月六日に京都に到着し、翌日、朝廷に送られた。当
時は、律令国家以来の外交権を朝廷が握っていたのである。
(( この時到来したフビライ国書は、「調伏異朝怨敵抄」に以下のような写しが存在する。
上天眷命
大蒙古国皇帝、奉書

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
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 日本国王、朕惟自古小国之君、境土相接、尚務講信修睦、況我
 祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異域、畏威懐徳者、不可悉数、朕即位之初、以高麗无辜之民、久瘁鋒鏑、
即令罷兵、還其疆城、反其旄倪、高麗君臣感戴来朝、義雖君臣、而歓若父子、計
 王之君臣亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密邇高麗、開国以来、亦時通中国、至於朕躬、而無一乗之使以
通和好、尚恐
 王国知之未審、故特遣使持書、布告朕志、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海為家、不相通
好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、
 王其図之、不宣、
(文永三年(
至元三年八月 日
「大蒙古国皇帝」であるフビライが、日本国王に宛てた国書であり、モンゴルの皇帝たちが天命によって版図 を拡大し、高麗がモンゴルに自ら臣従したことを述べ、日本に対して、「通問結好、以相親睦」せんことを求め たものである。「通問結好」のみであれば、日本にとっても問題はないが、文末の「至用兵、夫孰所好」と用兵 すなわち戦争をにおわせたので、日本、とくに鎌倉幕府はこの文言にすぐに反応し、到着した直後の文永五年二 月二十七日には、「蒙古人が凶心を差し挟み、本朝(日本)を伺っており」「早く用心すべき」という命令を発し
((
ている。同年、関東にいた宗教者日蓮も蒙古国書到来の情報を入手し、多くの書状で、蒙古の調伏を説いてい
((
る。しかし、高麗の調伏を説いた書状はなく、両国に対する認識の差は明白である。
((
このフビライ国書と同時に、次の高麗国書が到着した。
高麗国王 王稙

右 啓、季秋向闌、伏惟
大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我国臣事
蒙古大朝、禀正朔、有年于玆矣、
皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于
貴国、而
詔寡人云、海東諸国、
日本与高麗為近隣、典章政理、有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中国、故遣書以往、勿以風濤険阻為辞、其旨
厳切、玆不獲已、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉
皇帝書前去、且
貴国之通好中国、無代無之、況今
皇帝之欲通好
貴国者、非利其貢献、但以無外之名、高於天下耳、若得
貴国之報音、則必厚待之、其実与否、既通而後当可知矣、其遣一介之使、以往観之何如也、惟貴国商酌焉、
拝覆
日本国王左右、
(文永四年(
至元四年九月 日  啓
高麗は蒙古に臣事しており、蒙古皇帝が高麗を介して日本に「通好」しようとしており、その旨は「厳切」で あって、「不獲已」(やむを得ず)潘阜らを日本に派遣したと述べ、日本国王に返書と蒙古皇帝への使者の派遣を

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
(
勧めている。「不獲已」という文言に高麗の立場と本音が如実に示されている。
((
大宰府に到着した高麗使潘阜は、同年正月に、書簡を記している。次の文書である。
啓、即辰伏惟、
明府閣下、起居千福、瞻企無已、及到
貴境已来、館対温厚、感佩難安、頃者大蒙古国強於天下、四方諸国無不賓服、我邦亦罹於兵革、未獲土著、 幸今 皇帝、専以寛仁御衆、収威布徳、顧我黎庶、亦頼其恩、安生久矣、如貴国往来人、素所知也、其所詔
令、敢不惟命、越丙寅年秋、遣使二人、伝詔云、
日本国与高麗為鄰、自漢唐而下、通使中朝、今欲令通好、遣介向導、以徹彼疆、勿以風濤険阻為辞、抑未嘗
通好為解、其旨厳切、固難違忤、然念、我国与
貴国、敦睦已久、若一旦於不意中、与殊形異服之人、航海遽至、則
貴国不能無嫌疑、玆用依違、未即裁禀、至於毀我、金州接対
貴国人館而防之、実迫於威令、不敢便拒、輙差行人、与彼介偕至海浜方、其阻風時、而亦籍其危険、施延時
日以諭之、以故不能舟而旋返、此則我国之向
貴国之意何如也、因表奏其状、以謂更無後言、又前年秋、仍遣前来使介、及其上
貴国大王書一通、而詔勅如前日、遣使人詣彼、宣布勿復遅疑、其責愈厳、勢不得已、乃命吾輩、賚持彼朝皇
帝書一通、并我国書及不腆些小土宜、献于
貴国大王殿下、其 皇帝国書之意、与
貴国通好外、更無別語、予等必欲躬詣

(
闕下、親伝国書、仍達縷細、惟冀閣下一切扶護、導達于
王所、幸甚、不宣拝覆、
(至元五年(
正月1日

書状官将仕郎四門博士李仁挺
高麗国信使朝散大夫尚書礼部侍郎知制誥賜紫金魚袋潘阜
潘阜らは、蒙古が強大化し、高麗がその支配下に入っていること、高麗国書を一部引用し、皇帝の国書は、日
本と「通好」する意志しかなく、この皇帝国書を宮中に到り、自ら伝達したいと要望している。しかし、この要
望は叶わず、潘阜らは大宰府に監禁されたままで、日本国王の返書も得られず、空しく帰国した。
(二)文永七年の返書
文永六年六月、フビライは高麗に使者を派遣し、対馬島人二名を送還し、中書省牒を日本に伝達するように命 じた。高麗は、金有成・高柔を日本に派遣し、蒙古国書と高麗国書を伝達させた。高麗使一行は、同年九月十七 日、対馬島伊奈浦に到着し、その後、大宰府に到った。この時もたらされた中書省牒と高麗国書は、存在こそ知 られていたが、文書の内容は長く不明であった。「異国出契」所収の両国書写しが紹介され、全文を知ることが
((
出来るようになった。
大蒙古国皇帝洪福裏中書省  牒
日本国王殿下
 我国家以神武定天下、威徳所及、無思不能、逮

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
皇帝即位、以四海為家、兼愛生霊、同仁一視、南抵六詔五南、北至于海、西極崑崙、数万里之外、有国有土、
 莫不畏威懐徳、奉幣来朝、惟爾日本、国于海隅、漢唐以来、亦嘗通中国、其与高麗、寔為密邇、
皇帝嚮者、
 勅高麗国王、遣其臣潘阜、持璽書通好、
 貴国稽留数月、殊不見答、
皇帝以為将命者不達、尋遣中憲大夫兵部侍郎国信使紇徳・中順大夫礼部侍郎国信副使殷弘等、重持璽書、直

 貴国、不意纔至彼疆対馬島、堅拒不納、至兵刃相加、我信使勢不獲已、聊用相応、生致塔二郎・弥二郎二
人以帰、
皇帝寛仁好生、以天下為度、凡諸国内附者、義雖君臣、歓若父子、初不以遠近小大為間、至于高麗、臣属以
来、唯歳致朝聘、官受方物、而其国官府土民、安堵如故、及其来朝、
皇帝所以眷遇樹慰者、恩至渥也、
貴国隣接、想亦周悉、且兵交、使在其間、寔古今之通義、彼疆場之吏、赴敵舟中、俄害我信使、較之曲直、
声罪致討、義所当然、又慮
貴国有所不知、而典封疆者、以慎守固禦、為常事耳、
皇帝猶謂此将吏之過、二人何罪、今将塔二郎、致
貴国、俾奉牒書以往、其当詳体
聖天子兼容并包、混同無外之意、忻然效順、特命重臣、期以来春、奉表闕下、尽畏天事大之礼、保如高麗国

 至元六年六月日
 八
例処之、必無食言、若猶負固恃険、謂莫我何、杳無来則、天威赫怒、命将出師、戦舸万艘、径圧王城、則
将有噬臍無及之悔矣、利害明甚、敢布之
殿下、唯
殿下、寔重図之、謹牒、
右牒
日本国王殿下
至元六年六月日牒
資政大夫中書左丞
資徳大夫中書右丞
栄禄大夫平章政事
栄禄大夫平章政事
光禄大夫中書右丞相
牒奉
日本国王殿下         中書省
この中書省牒は、至元六年六月に元の中書省日本国王宛に送った牒である。内容的には、皇帝は高麗国王に

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
勅して、潘阜を日本に派遣したが、日本は数ヶ月拘禁し、返書しなかったこと、その後、皇帝は再び使者を日本 に派遣したが、対馬等で入国を拒否され、武力衝突になったため、塔二郎・弥二郎を連れ帰ったこと、今回、塔 二郎を日本に帰国させ、牒書を届けさせるので、喜んで従い、特に重臣に命じて、来春を期し、宮廷に表を奉り、 事大の礼を致すべきこと、もしこれを拒めば、出兵し、王城を制圧すると警告している。至元三年八月のフビラ
イ国書よりも、文末近くの威嚇文言が具体的かつ威圧的である。
これと同時に日本に届けられたのが、次の牒である。
高麗国慶尚晋安東道按察使牒
日本国太宰府守護所
当使契勘、
本朝與
貴国、講信修睦、世已久矣、頃者、北朝皇帝欲通好
〔嚮〕
貴国、発使齎書、道従于我境、并告以卿導前去、方執牢固、責以多端、我国勢不獲已、使々伴行過海、前北
朝使价、達於対馬、乃男子二人、偕乃至帝所、二人者即被還、今已於当道管内至訖、惟今装舸備糧、差尚州
〔此〕 牧将校一名・晋州牧将校一名、郷通事二人、水手二十人護送、凡其情実、可於比人聴取知悉、牒具如前、事
須謹牒、
至元六年己巳八月日   牒
〔在〕 按察使兼監倉使転輪提点刑獄兵馬公事朝散大夫尚書礼部侍郎太子宮門郎位判
高麗慶尚晋安東道按察使から、日本国大宰府守護所に宛てられたものである。以前の例に習えば、本来は高麗

(1
一〇
国王から日本国王に宛てるべき文書であるが、蒙古の国書が中書省から日本国王に宛てたものであったため、役
所から日本の外交を九州で担った大宰府に宛てられたものであろう。高麗の地方官が大宰府に外交文書を出した
(( 例は、安貞元年(高宗十四年=一二二七)二月に高麗国全羅州道按察使が日本国惣官太宰府に宛てた牒がある。
古来、邦物を高麗に貢進し、和好を修していた対馬島人が、前年六月に夜寝に乗じて城壁の穴から入り、正屋を
奪掠したという倭寇行為を伝えた牒である。この先例に則って、今回は、慶尚晋安東道按察使から大宰府に出さ
れたものと考えられる。
本来、官衙としての大宰府に宛てるのであれば、大宰府のみでいいのだが、鎌倉時代になると大宰府は鎌倉幕
府の鎮西奉行武藤氏(少弐氏)が押さえており、武藤氏は「大宰府守護所」から文書を発給していた。このこと
を以前に来日した潘阜らが知っていたため、太宰府守護所=武藤氏に対して出されたものと考えられる。
本牒の内容は、北朝皇帝(フビライ)が貴国(日本)と通好したいと欲しており、使節を派遣し、高麗を経由 して、先導させたため、高麗はやむを得ず使者を伴わせて日本に渡らせたという以前の状況を説明し、前の北朝 の使价が対馬に到り、そこの男子二名がともに帝所に到ったこと、その二人が還され、今すでに当道(慶尚晋安 東道)管内に到着したため、船を仕立て食糧を備え、尚州牧将校一名・晋州牧将校一名・郷通事二人・水手二十 人を派遣して護送したこと、その事情については、還した対馬島人二名から聴取すべきことを述べている。「や むを得ず」という前段は、先の高麗王の国書を踏まえたものである。全体を通して、高麗側の受動的な立場を強
調している。
フビライは一二六九年(文永六・至元六)六月、ウルタイを高麗に派遣し、二人の対馬島人を送らせた。ウル
タイは七月に高麗に到り、高麗は、金有成・高柔を使者として日本に送還させた。高麗の使者は九月十七日、対

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
((
馬島伊奈浦に着き、その後一行は大宰府に到り、大宰府守護所に留め置かれた。二通の牒は、大宰府から鎌倉幕
府経由で京都の朝廷に送られた。
二通の牒を受け取った朝廷では、十月十七日に院評定が行われ、蒙古・高麗の牒状に対して返書すべきか否か
が議論された。結局、朝廷はこれらに返書することを決定し、菅原長成に命じて返書の草案を作らせた。その結
((
果、長成が作成したのが、以下の二通の返書である。この作成された二通の文書は、結局、鎌倉幕府の反対で相
手国に渡されなかった。
贈蒙古国中書省牒          菅原長成
日本国太政官牒 蒙古国中書省 附高麗国使人牒送、
牒、得太宰府去年九月二十四日解状、去十七日申時、異国船一隻、来着対馬嶋伊奈浦、依例令存問来由之処、 高麗国使人参来也、仍相副彼国并蒙古国牒、言上如件者、就解状案事情、蒙古之号、于今未聞、尺素無脛初 来、寸丹非面僅察、原漢唐以降之蹤、観使介往還之道、緬依内外典籍之通義、雖成風俗融化之好礼、外交中 絶、驪遷翰転、粤伝郷信、忽請隣睦、当斯節次、不得根究、然而呈上之命、縁底不容、音問縦雲霧万里之西 巡、心夐忘胡越一体之前言、抑貴国曽無人物之通、本朝何有好悪之便、不顧由緒、欲用凶器、和風再報、疑 冰猶厚、聖人之書、釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業、何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎、凡
(亀山(
自天照皇大神耀天統、至日本今皇帝受日嗣、聖明所覃、莫不属左廟右稷之霊、得一無弐之盟、百王之鎮護孔
(藤原家経( 昭、四夷之脩靖無紊、故以皇土永号神国、非可以智競、非可以力争、難以一二、乞也思量、左大臣宣、奉敕、
彼到着之使、定留于対馬嶋、此丹青之信、宜伝自高麗国者、今以状、牒到准状、故牒、
文永七年正月 日
一一

(1
一二
日本の太政官が蒙古国の中書省に宛てた牒である。九月十七日に対馬島伊奈浦に異国船が来着したため存問し、 高麗国と蒙古国の牒を副え進めるという大宰府解状を引用する。この「存問」は古代において大宰府が担ってい た外交機能の一つであり、武藤氏が押さえる大宰府も形式的にはこの機能を継承していた。続いて、「蒙古之号」 は未だ聞いたことがなく、貴国(蒙古)はかつて人物の往来もなく、本朝(日本)はどうして貴国に対して好悪 することがあるだろうか。そうした由緒を顧みず「、凶器」=武器を用いようとしている。春風が再びやって来ても、
凍った氷はなお厚い。聖人の書物や釈迦の教えは、救い生かすことを素懐として、命を奪うことを悪い行いとす る。どうして自らを「帝徳仁義之境」と称しながら、かえって民衆を殺傷する源を開くのかと蒙古を批判している。 さらに、天照皇大神から日本今皇帝(当時の天皇亀山天皇)に至るまで聖明のおよばないところはなく、百王 の鎮護は明かであり、四方の異民族をおさめ鎮めること少しの乱れもないため、皇土をもって永く神国と号して
いる。智をもって競うべきではなく、力をもって争うべきでもないと述べている。
この日本側の主張は、「通好之義、准漢唐之例、不可及子細、但彼国与我国、自昔無宿意、用兵之条、甚以不義之旨、
(( 可被遣返牒也」という後深草上皇院宣に従ったものである。先の中書省牒の威嚇文言は「、天威赫怒、命将出師、
戦舸万艘、径圧王城」であるが、「用兵」という文言はない。「用兵」が用いられたのは、至元三年のフビライ国 書であり、この太政官牒は、これまで到来した蒙古からの国書全てを意識して書かれたことがわかる。
このように、この返牒は、フビライ国書や中書省牒に対して、日本の立場から反論したものである。これが高
麗経由でフビライのもとに届けられたならば、用兵=日本遠征はむしろ早まることが予想されるぐらい、蒙古側
の「通好」の意志に応えていない。これは、蒙古側の威嚇文言に敏感に反応した結果であったが、その強硬な反
論の背景には、神国思想が存在することも明白である。

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
(1
((
次の「本朝文集」所収大宰府守護所牒には脱文があるため、近年の史料研究の成果をもとに釈文を次に示す。
    贈高麗国牒
日本国太宰府守護所牒 高麗国慶尚晋安東道按察使
 来牒事
牒、尋彼按察使牒偁、当使契勘、本朝与貴国講信修睦、世已久矣、頃者、北朝皇帝欲通好貴国、発使齎書、 道従于我境、并告以嚮導前去、方執牢固、責以多端、我国勢不獲已、使々伴行過海、前北朝使价、達於対馬、 乃男子二人偕乃至帝所、二人者即被還、今已於当道管内至訖、惟今装舸備糧、差尚州牧将校一名・晋州牧将 校一名・郷通事二人・水手二十人護送、凡其情実、可於此人聴取知悉、牒具如前、事須謹牒者、当府守護所、 就来牒、凌万里路、先訪柳営之軍、令達九重城、被降芝泥之聖旨、以此、去月太政官之牒、宜伝蒙古中書省 之衙、所偕返之男子等、艤護送之舟、令至父母之郷、共有胡馬嘶北、越鳥翥南之心、知盟約之不空、感仁義 之雲露、前頃牒使到着之時、警固之虎卒不来、海浜之漁者先集、以凡外之心、成慮外之煩歟、就有漏聞、恥
背前好、早加霜刑、宜為後戒、殊察行李淹留之艱難、聊致旅粮些少之資養、今以状牒、牒到准状、故牒、
  文永七年二月 日 牒
少弐従五位下藤原朝臣
大宰府守護所が高麗慶尚晋安東道按察使に宛てた返牒である。冒頭で慶尚晋安東道牒の文章を引用している が、「本朝文集」には長い脱落がある。大宰府守護所は、今度の来牒によって、牒をまず鎌倉幕府に伝え、その後、 朝廷に伝えて天子の命令が下された。去月の太政官牒を蒙古中書省に伝えるべきこと、送還した男子らを、護送 の船を仕立て、父母の郷(対馬)に到らしめたことを感謝し、牒使が到着した時、警固の兵士が来ず、海浜の漁
一三

(1
(1
(1
一四
民が先に集まり、慮外の煩いをなしたことを謝罪し、煩いをなした者を厳しい刑罰に処すことを約束し、滞在中
の食糧を支給している。この大宰府牒と先の太政官牒の書きぶりと内容を比較すると、蒙古に対しては厳しく対
応し、高麗に対しては好意的に対応している。
このような蒙古・高麗と日本の交渉は、比較的早く関係者以外にも伝わっていた。とくに「立正安国論」の中 で、「他国侵逼難」(外国からの侵略)と「自界叛逆難」(日本国内の内乱)を予言していた日蓮は、こうした動 向に敏感であり、北条氏関係者を通して、蒙古国書の内容を把握し、蒙古が日本を攻めようとしていると認識し ていた。しかし高麗が日本を攻めるという認識はなく、高麗については、蒙古とは全く別の次元の認識をしてい
((
た。例えば、文永七年十一月二十八日日蓮書状には、「震旦・高麗すてに禅門念仏になりて、守護善神の去かの
間、彼蒙古に聳候ぬ、我朝又邪法弘て、天台法華宗を忽諸のゆへに、山門安穏ならす、師檀違叛の国と成候めれ
は、十か八九はいかんとみへ候」と述べている。震旦(中国)と高麗は、禅宗念仏宗になってしまい、国家を
守護する善神が去ってしまったので、蒙古になびいてしまったとして、日本も同様であると嘆いている。南宋
衰退し、高麗が蒙古に臣属したのは、信仰する仏教のせいであるとするのである。こうした日蓮の高麗観は、当
時の日本国内でも特異な位置づけになる。
(三)三別抄の国書到来
文永八年九月二日、関東(鎌倉幕府)使者が「高麗牒状」を持参し、関東申次西園寺大納言(実兼)のもとに
((
届けた。翌九月三日、高麗牒状について院評定がなされた。「件牒状趣、蒙古兵可来責日本、又乞糶、此外乞救兵歟、
((
就状了見区分」とあるように、この高麗牒状には、蒙古兵が日本を攻めることと、米や兵の救援の依頼が書かれ

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
1(
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((
ていた。このため、この牒状の発給主体については古くから議論があり、後掲の「高麗牒状不審条々」によって、
((
この牒状が高麗政府に反乱を起こしていた三別抄から送られたことが判明した。
その後も院や朝廷で評定が何度も行われ、返牒をすべきかどうか議論がなされた。作成された口宣に「有西蕃
使价、告北狄陰謀」の文言があり、「高麗在北、蒙古在西云々、口宣趣与呪願、西北之義相違、可為何様哉」と
((
疑問が呈されている。日本の朝廷は、高麗=西蕃、蒙古=北狄と表現したが、高麗は日本の北にあり、蒙古は西
にあるため、西と北が相違しているとしているのである。この呪願(仁王会呪願文)で作者が蒙古を「北狄」と
((
記したのは、高麗書に蒙古を「北朝」と記したからであるとしている。いずれにせよ、高麗と蒙古を西蕃・北狄
と認識するのは、日本型の華夷意識の表れであるといえる。
この時到来した高麗国書が三別抄からの文書であったことを確定させたのが、次の「高麗牒状不審条々」であ
((
る。
高麗牒状不審条々
一 以前状文永五年揚蒙古之徳、今度状文永八年韋毳無遠慮云々、如何、
一 文永五年状書年号、今度不書年号事、
一 以前状、帰蒙古之徳、成君臣之例云々、今状、遷宅江華近四十年、被髪左衽聖賢所悪、仍又遷都珍島事、
(彼(
一 今度状、端ニハ不従成戦之思也、奥ニハ為蒙被使云々、前後相違如何、
一 漂風人護送事、
一 屯金海府之兵、先二十余人送日本国事、
一 我本朝統合三韓事、
一五

一 安寧社稷待天時事、
一 請胡騎数万兵事、
一 達兇旒許垂寛宥事、
一 奉贄事、
一 貴朝遣使問訊事、
「以前状」(文永五年状)が、文永五年に到来した至元四年九月日高麗国書であり、「今度状」(今状)が文永八
年に到来した三別抄からの文書である。日本の貴族たちは、両者の違いの本質が見抜けなかったのであるが、朝 廷も鎌倉幕府も、この食糧や軍勢の救援要請には応えず、三別抄の遣使は成功しなかった。漂風人=漂流者を日 本に送還し、「贄」=礼物を日本に送り、日本から遣使について問うなど、三別抄は日本との本格的な交流を構
想していたことは注目される。
貴族たちはこの文永八年の三別抄の文書の本質を見抜けなかったが、その内容は部分的に京都の人々に伝わっ
ていた。
 正伝禅寺住持東巌慧安大衆 某甲再拝
一心啓白八幡大士六十余州一切神等、今日本国天神地祇、以於正法治国以来、部類眷属充満此間、草木土地 山川叢沢水陸虚空、無非垂迹和光之処、各々振威、各々現徳、可令斫伏他方怨賊、昔在女帝、名曰神功、懐 胎母人、相当産月、為防他州無量怨敵、誓心決定、起勇猛心、因之、国中一切神祇知其志念、皆悉随従、擲 於干珠、大海枯竭、擲於満珠、海水盈満、無数怨敵、漂沈無余、此之両珠、倶是如意、今現在於王宮正殿、 十善華開、宝珠菓現、十悪之眼、都不可見、昔日神功、豈異人乎、今八幡宮大菩薩是、濁悪満邦、雖無善根、
一六

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
正伝一衆、慇懃祈念、鎮護誓約、甚深依馮、大衆甲某今在王地、樹下石上、草衣木食、滴水寸土、無非朝恩、 行道修善、皆帰国家、知恩報恩、真実行業、此是如意摩尼宝珠、此是金剛吹毛利剣、乾坤之中、何物不降、
設満三千大千世界、三目八臂大那羅延、摧破不肖、何况蒙古、譬如師子敵対猫子矣、
又有伝聞、蒙古人云、日本弓箭兵仗武具、超勝他国、人有勢力、夜叉鬼神無由敵対、雖然、国中下賤無道、
(脱アルカ(
上者卑下、下者高挙、万民乱、故王臣叵分、無理乱国、何不入掌、一陣破却、残党不難、先破高麗、次責日
本、以彼軍兵、自恣降伏、天竺震旦、甚以為易、所聞無違、二国和合、衣冠一致、両度牒使高麗人也、顕然
無疑、先度牒状不及返牒、第二牒状応有返牒、并以和親風聞満衢、正伝聞之、愁歎無量、悲徹骨髄、顧古助神、
(文永六年(
以大乗経神咒明呪、啓白発願、慇懃鄭重、己巳臘月二十七日、当社宝前一心開白、大歳庚午三月初一、於正
伝寺専心結願、七九行業連々無廃、三百万遍経王神咒、三業相応、歴々珠玉、法楽荘厳、八幡大士、奉祈聖
朝、師子虎狼、大勢高運、万国怖威、仍無返牒、無有和親、当結願日、如彼牒使、神告霊夢、千万怖畏、還
対神国、懇望和親、蒙古毛冠、跪所奉献、此是降伏先瑞故也、又高麗半違背蒙古、随順本朝、念此等利、神
感道交、霊験令然、切冀、明神入於貴賤五体之中、増運益勢、可令斫伏蒙古怨敵、重乞、神道成雲成風、成
雷成雨、摧破国敵、天下泰平、諸人快楽、伏乞、八幡三所権現、百王鎮護誓約無廃、放大光明加持護念、上
来啓白、都莫違失、天上地下、皆垂照覧、
  発願
至心発願 一心諷誦 諸大乗経 真言神咒 功徳威力
八幡権現 法楽荘厳 威光倍増 霊験神威 冥加国土
上皇帝 師子大勢 虎狼威猛 蒙古怨敵 聞之恐怖
一七

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万国降伏 皆帰聖徳 八幡大士 一切神祇 天上地下
護法善神 皆来集会 擁護王宮 聖朝安穏 率土安寧
    諷経
    回向
上来諷経 功徳回向 今上皇帝 薫入玉体 内証聖徳
聖道高運 外用大勢 師子虎狼 四海帰徳 万国怖畏
降伏敵国 衆怨消滅 十方三世 一切諸仏
諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅密
  文永八年大歳辛未九月三五酉時開白
(奥端(
  「すへのよの末の末までわか国は
((
      よろづのくにゝすぐれたる国」
本願書の作成者東巌慧安は、宗覚派の禅僧で、渡来僧兀庵普寧の法嗣となり、文永五年に京都に正伝寺を創建
((
した人物である。神祇信仰に篤く、元使・高麗使の来日に際しては、正伝寺で異国降伏の祈祷を行った。本史料
は、文永八年九月、すなわち三別抄国書が朝廷・院で評定されていたころ、作成されたものである。冒頭に、「一
心啓白八幡大士六十余州一切神等」とあるように、神祇信仰の中でも、八幡信仰にとくに傾倒していた。趣旨は、 「蒙古怨敵」「降伏敵国」などとあるように、異国降伏であり、末尾には和歌を詠んでいる。
この願文では、伝聞として、蒙古人が、日本の弓箭兵仗武具は他国に超越し、人は勢力があるが、「国中下賤無道」 のため、「無理乱国」となったと言っていると述べている。「二国和合、衣冠一致、両度牒使高麗人也、顕然無疑」
一八

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
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-
と蒙古と高麗の共謀は明瞭だとしている。しかし、「蒙古怨敵」とはあるが、「高麗怨敵」という表現はなく、蒙 古を警戒していることは明かである。「先度牒状不及返牒、第二牒状応有返牒」「仍無返牒、無有和親」と、返牒 の有無についても関心を持ち、正確な情報を得ている。さらに、「又高麗半違背蒙古、随順本朝」と、高麗は半 ば蒙古に背き、本朝(日本)に随っているとしている。これは、文永八年九月という時期から推定すると、三別 抄の反乱を示していると考えられる。東巌慧安は三別抄国書の内容を知っており、国書と使者から得た情報に基
づき、こうした記述をしたものと考えられる。
二 蒙古襲来後の日本 高麗関係
(一)異国征伐計画
以上のような、日本の蒙古と高麗に対する認識の差は、文永十一年十月の文永の役によって崩壊し、高麗も敵
国と認識された。それが端的に出てくるのが、異国征伐である。
異国警固之間、要害石築地事、高麗発向輩之外、課于奉行国中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人 夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐々謹言、
(武藤経資(   建治二年三月十日             (押紙)「太宰少弐盛経」少弐(花押)
((
   深江村地頭殿
文永の役の直後、鎌倉幕府は、再度の蒙古襲来に備えて、様々な対策を講じた。この史料は、建治二年(一二七六)
一九

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二〇
三月十日、鎮西奉行武藤経資が肥前国の深江村地頭に対して、「異国警固のため、要害石築地を、高麗発向の輩 の他は、奉行の国中に課し、平均に沙汰を致すところである。三月二十日以前に人夫を連れて博多津に向かい、 担当すべき役所を請け取り、沙汰をするように」と述べている。これは、同年における博多湾一帯の石築地(元
((
寇防塁)の築造を命じた文書として著名なものである。「高麗発向」とは、「異国征伐」とも言われ、高麗を攻撃
((
することを示している。文永の役の直後、鎌倉幕府は、博多湾一帯に石塁を構築することと、高麗を攻撃するこ
(( とを、同時並行で準備した。異国征伐=高麗征伐に関する同時期の史料は、以下のようなものがある。
為高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐々謹言、
(島津(
  建治二年後三月五日      久時御判
   大隅五郎殿
島津久時が管国の武士に対して、「高麗征伐」を命じた文書である。こうした文書は九州一円の武士たちに出
されたものと考えられる。高麗は、蒙古とともに日本に襲来した敵国であり、討伐すべき存在として認識された
ことは明白である。ただしこの高麗征伐は、準備されたが、実行されなかった。中止の理由を記した史料はない
が、攻撃(高麗征伐)よりも防御(石築地)を優先した結果だと考えられる。
(( この異国征伐は何度も計画され、かつ結局は実行されなかった。次の史料は、弘安四年の弘安の役直後に、異
((
国征伐が企画されたことを物語る史料である。
可被征伐高麗之由、自関東其沙汰候歟、少弐乎大友乎為大将軍、三ヶ国御家人、悉被催立、并大和・山城悪 徒五十六人、今月中可向鎮西之由、其沙汰候、(中略)恐々謹言、
    乃刻             聖守

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
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(奥端(
「「 猪名庄・豊田庄間事 大勧進上人返事   」聖守」
弘安四年八月十六日
(包紙ウハ書(
 「弘安四年聖守上人消息
 蒙古襲来古文書弐枚」
弘安四年八月十六日の書状で、東大寺の聖守は、高麗を征伐するように関東(鎌倉幕府)から沙汰があったこ
と、少弐(武藤経資)か大友(頼泰)が大将軍として、三カ国の御家人を全て動員し、さらに大和・山城の悪徒
五十六人は今月中に鎮西に向かうべしと沙汰があったことを述べている。文永・弘安の役の直後に異国征伐が企
画されていることは、高麗に対する報復の意味があるだろう。その中心は鎮西東西奉行の武藤氏と大友氏であっ
た。この時は、九州三カ国の武士に加えて、大和・山城といった畿内の悪徒が追加されており、勤仕の対象が広
範化していることが特徴的である。
(二)正応五年の高麗使金有成の来日
弘安の役後も蒙古使・高麗使が度々来日し、日本招諭を行った。文永の役後は、来日した蒙古使・高麗使は鎌
(( 倉や博多で殺害されるようになる。蒙古使の中に高麗人が同行することもあった。最後の日本招諭の高麗使節
なったのは、正応五年(一二九二)十月に来日した金有成である。金有成は次の至元二十九年(一二九二)十月
((
の高麗国王国書を持参した。
皇帝福廕裏特進上柱国開府儀同三司
   駙馬高麗国王王昛、
  謹奉書于
二一

  日本国王殿下、冬寒 伏惟
(侯カ(
  尊候万福臨莅、不穀篤承
皇帝聖徳、大元国保守弊封、小邦与
  貴国隔海為隣、昔
  貴国商人、時或往来於金海府、因以為好、曽無嫌隙、今五 月貴国商船、到泊耽羅洲渚、耽羅人性本頑点、
追逐其船、邏捉二名而送之、小邦申於
  大元国而押送、
皇帝詔問其由、命還本国而護送、故差朝奉大夫大僕尹世子石庶尹金有成、前去致辞并送其商人、惟悉之、両
国既已為隣、凡終始休戚、敢不相恤、且為
  貴国計之将有利国之一端、不得不陳、未審殿下之所―捨伏増惶―懼、我―国元―自祖―先臣―事
  大元其来尚矣、我父王再覲
  天庭輙蒙
聖―奨安―保国家恪―勤候―度、予為世―子時、継父親朝
皇帝、特垂龍―渥許尚
(安(
  公 ―主冊為駙 ―王承襲宗 ―器因不失国号君 ―臣社 ―稷、礼 ―楽文 ―物、衣 ―冠名 ―分、一切仍旧、百姓按堵、
楽業安生、実輸誠事大之故也、且宋 ―朝軍 ―民、不為不多、金湯不為不固、不知有唐虞之大 ―統、自大
而不庭故、
皇帝親征天兵奄至、宋之君臣倉―卒失措、遣使請哀、若許班師、世脩朝貢、歳納方物
二二

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
皇帝軫慈而却兵遣翰林学―士郝経宣諭甚敢、宋―国執迷不悛、違命不朝、
帝乃震―怒、大発王師、討以失期、兵威所加、石如壓卵殄滅国号、九廟隳百―官毀、無復君臣之礼、三百年
(省(
積累之基、一旦傾 ―覆、仍命設官置者、完護遺民亦貴国之所聞、我国所見、古典云、順天者昌、事大者興、
又云、抗行為過、和―睦為好、可不戒哉、可不儆哉、今
我大元国
皇帝陸下、千載応期、神―聖文明、功―徳兼―豊、仁―慈寛―厚、好生悪殺、徳洽群生、普天之下莫不感徳梯
航幅湊、猶恐不及
貴国、念我国之存、懲宋―朝之亡、遣一―介之使、奉一尺之表、朝於大元、則無損於今、有益於後、誠
貴国社稷之福也、若恃阻大 ―洋而不与隣国交 ―通所未知也、脆有不従之、則噬臍何及、自古靡有軽隣、
而能保国家者也、小邦爰処旧都、其勢易弱、猶且在宥一示同仁、許安土 - 着如向所陳 貴国邈在海外、但遣使入―朝、決無後患、幸進―退詳酌、頃在辛巳年、因辺将所奏、発兵往征戦艦、因
風―濤播蕩、間或失水軍―卒、有遺―漏不還者、今聞耽―羅所送商―人言
貴国並皆収 - 護処―養、似順好生之
聖徳、此一幸也、
国宗―社、有霊以不―穀之言為可取、納款帰朝、則必蒙 聖沢、無秋毫之失、有磐石之安、予亦処中、保命導霈皇恩以貽百世之寧、不穀之言、可不方信、予之所以区々
者、只為彼此無辜耳、伏惟
傾炤、不宣、再拝、
二三

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-
(正応五年(
  至元二十九年十月 日 状
高麗王が日本国王に宛てた長文の国書である。冒頭では、二回にわたる蒙古襲来=戦争については触れず、「貴 国隔海為隣、昔貴国商人、時或往来於金海府、因以為好、曽無嫌隙」と、友好関係があった時期の両国の関係が 語られている。五月に日本の商船が耽羅に到り、耽羅人が商船を追逐し、二名を捕らえて高麗に送ってきた。高 麗は、この二人を元に送り、皇帝が日本への還送を命じたため、これを護送するというのが使節派遣の名目とし
て語られている。
後半では、高麗が元に臣属して大きな利点があることと、元に降伏した宋が約束した朝貢をしなかったため、
元皇帝が怒って宋を滅ぼしたこと、元皇帝の徳の高さを説き、日本も元に仕えるように勧めている。この金有成
の来日は、異国警固を継続する日本 鎌倉幕府に大きな脅威となった。鎌倉幕府は次のような文書を出し、対応
((
した。
( 北 条 ((同(
為異賊警固、所下遣兼時・々家於鎮西也、防戦事、加評定、一味同心、可運籌策、且合戦之進退、宜随兼時之計、
次地頭御家人并寺社領本所一円地輩事、背守護人之催促、不一揆者、可注申也、殊可有其沙汰之由、可相触
薩摩国中之状、依仰執達如件、
(北条宣時(
  正応六年三月廿一日    
陸奥守(花押)
(北条貞時(
相模守(花押)
               
(忠宗(
   島津下野三郎左衛門尉殿
「異賊警固」「異国防禦」のため、鎌倉幕府は北条兼時・同時家を九州(博多)に派遣し、蒙古が襲来した場合
の防戦を指揮させたのである。この異賊警固の軍役は、地頭御家人・寺社領本所一円地輩の双方に賦課されて
二四

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((
いるのが特徴的である。他の史料によると、この時派遣された兼時・時家両名は、「鎮西奉行人」とされており、
鎌倉初期以来の鎮西奉行と後期の鎮西探題の過渡的な位置づけになると思われる。
この当時、鎌倉幕府は、異国降伏祈祷の実施や異国警固番役の強化、烽火の演習等、蒙古の再襲来を想定した
政策を実施しており、金有成の来日が、日本 鎌倉幕府に大きな衝撃を与えたことを物語っている。元側も、三
((
度目の日本遠征を何度も企画し、その準備も行っていたが、様々な事情で実施されなかった。
おわりに
鎌倉幕府は、異国警固や石築地の修築を怠らず、こうした緊張関係は鎌倉末まで続いた。したがって、日本と
高麗の関係は緊張関係を保ったまま、全く修復されなかった。これは、日元関係が、政治的には緊張関係が続き
ながらも、日元貿易の活発化によって、経済・文化的には活発な交流があったことと対照的である。
こうした日本と高麗の緊張関係はいつまで継続するのか。それは、十四世紀後半を待たなければならなかった。 一三五〇年のいわゆる「庚寅以来の倭寇」(前期倭寇)の活発化によって、高麗は大きな被害を受けた。高麗は これに対して、外交交渉によって、倭寇の沈静化と被虜人の送還を意図した。貞治六年(一三六七)、金龍・金
((
逸らが相次いで京都に到着し、倭寇鎮圧の外交交渉を行った。
この時、高麗使に対応したのは、外交権を持つ朝廷であったが、朝廷内では、蒙古襲来の記憶が蘇り、蒙古襲
来を中心とした高麗との外交関係記録が編集された。先例主義である公家社会の一般的な慣例である。結局、公
家政権は、高麗国書が無礼であるという理由をつけて、返牒しなかった。日元交渉以来の伝統的外交の踏襲であ
二五

(( (( (0
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二六
る。この時、新興の室町幕府は、将軍足利義詮天龍寺で高麗使節に対面したり、返書を出すなど、対高麗外交
を担った。十五世紀初頭の日明外交で鮮明になる武家政権による外交機能の接収は、この時期に大きく進展する
のである。

(1) 川添昭二『蒙古襲来研究史論』雄山閣、一九七七年。また、以下、日元交渉や蒙古襲来に関する記述は、断らない限り、佐伯
弘次『日本の中世九 モンゴル襲来の衝撃』中央公論新社、二〇〇三年による。
(2) 論文は多数あるが、著書としては、池内宏『元寇の新研究 一』東洋文庫、一九三一年、青山公亮『日麗交渉史の研究』明治
大学、一九五五年などがある。
(3)『中世法制史料集』第二巻所収「沙汰未練書」。
(4) 竹内理三編『鎌倉遺文古文書編』十三巻九五六四号「蒙古国牒状」。以下、『鎌遺』十三 九五六四のごとく略す。なお、以下
の引用史料は、主として、佐伯弘次・森平雅彦・舩田善之・池田栄史編『《元寇》関係史料集(稿)』I日本史料編・II中国・朝
鮮史料編・III日本史料・中国史料補遺編、九州大学、二〇一〇 二〇一一年による。
(5)『鎌遺』十三 九八八五。
(6)『鎌遺』十三 九九一一、文永五年四月五日日蓮書状以下、多数ある。
(7)『鎌遺』十三 九七七〇。
(8)『鎌遺』十三 九八四五。
(9) 張東翼「一二六九年「大蒙古国」中書省の牒と日本側の対応」(『史学雑誌』一一四 八、二〇〇五年)。
( )『吾妻鏡』安貞元年五月十四日条。青山前掲書二七頁。
( )『国史大系 本朝文集』巻六十七。
( ) 張東翼論文七〇頁。史料は「蒙古来使記録」(『鎌遺』十四 一〇三八〇)。

蒙古襲来以後の日本の対高麗関係
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( ) 荒木和憲「文永七年二月日付大宰府守護所牒の復原 ― 日本・高麗外交文書論の一齣 ―」(『年報太宰府学』二、二〇〇八年)。
( ) 日蓮聖人遺文(文永七年)十一月二十八日日蓮書状(『鎌遺』十四 一〇七四二)。
( )『吉続記』文永八年九月二日条(史料大成二三)。以下の記述は本史料による。
( ) 同前文永八年九月四日条。
( ) 川添前掲書。
( ) 石井正敏「文永八年来日の高麗使について ― 三別抄の日本通交史料の紹介」(『東京大学史料編纂所紀要』一二、一九七八年)、
村井章介『アジアのなかの中世日本』校倉書房、一九八八年。
( )『吉続記』文永八年九月二十一日条。
( ) 同前文永八年九月二十二日条。
( ) 東京大学史料編纂所保管文書(歴史学研究会編『日本史史料 二 中世』一四〇頁、岩波書店、一九九八年)。
( ) 山城正伝寺文書文永八年九月東巌慧安願文(『鎌遺』十四 一〇八八〇)。
( ) 竹貫元勝「東巌慧安」(『国史大辞典』一〇、吉川弘文館、一九八九年)。
( ) 深江文書建治二年三月十日武藤経資書状(『鎌遺』十六 一二二六〇)。
( ) 川添昭二編『注解元寇防塁編年史料』福岡市教育委員会、一九七一年。
( ) 相田二郎『蒙古襲来の研究増補版』吉川弘文館、一九八二年。
( )「旧記雑録」所収建治二年後三月五日島津久時書状(『鎌遺』十六 一二二九三)。
( ) 海津一朗『蒙古襲来 対外戦争の社会史』吉川弘文館、一九九八年。
( ) 東大寺文書弘安四年八月十六日聖守書状(『鎌遺』十九 一四四二二)。
( ) 例えば、『鎌倉年代記裏書』建治元年四月十五日条(続史料大成一八)に、高麗訳語郎将徐(年三十三)が見える。
( ) 金沢文庫文書至元二十九年十月高麗国王国書写(『鎌遺』二十三 一八〇四〇)。
( ) 島津家文書正応六年三月二十一日関東下知状(『鎌遺』二十三 一八一三〇)。
( ) 樺山文書正応六年三月二十一日関東下知状(『鎌遺』二十三 一八一三一)。
二七

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二八
( ) 池内前掲書。
( ) 中村栄孝『日鮮関係史の研究 上』(吉川弘文館、一九六五年)、張東翼「一三六六年高麗国征東行中書省の咨文について」
(『アジア文化交流研究』二、二〇〇七年)、石井正敏「貞治六年の高麗使と高麗牒状について」(『中央大学文学部紀要 史学』
五五、二〇一〇年)。