テスト 〈論文〉 モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 目 次 はしがき 一 モンゴル・元朝の対日遣使 1 遣使の次数と諸段階 2 威圧的勧誘 3 使者の称その他 4 国書の形式・書式 植 松 正 二 日本の対元遣使 1 北条時宗の遣使:一二七九 2 日本の遣使とされるもの:一二七二 i 趙良弼の日本遣使 ii 日本の使節団 iii 元朝の日本使節団に対する評価 むすび 余論 趙良弼書状についての考察 2 はしがき このところ、モンゴル・元朝と日本の接触に関する論考


〈論文〉
モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
   目 次
はしがき
一 モンゴル・元朝の対日遣使
 1 遣使の次数と諸段階
 2 威圧的勧誘
 3 使者の称その他
 4 国書の形式・書式
植 松   正
二 日本の対元遣使
 1 北条時宗の遣使:一二七九
 2 日本の遣使とされるもの:一二七二
  i 趙良弼の日本遣使
  ii 日本の使節
  iii 元朝の日本使節団に対する評価
むすび
余論 趙良弼書状についての考察

2
はしがき
このところ、モンゴル・元朝と日本の接触に関する論考数編を書いた。長らく考えてきた分野でもなかったが、それ
でも最初の手探り状態と比べれば、自分なりに歴史的事象にイメージを描くことができてきたようにも思う。そこで今
回は道半ばなのは承知であるが、モンゴル・元朝の対日遣使について気付いたいくつかの点を述べ、次いで日本の対元
遣使として二件を取り上げて論じてみたい。
「日本の対元遣使」とは従来あまり意識されてこなかった言葉だと思う。日本とモンゴル・元朝との関係といえば通 常人々の念頭に浮ぶのは異国襲来、モンゴル(蒙古)襲来、元寇などと言われる外国からの日本への侵攻であろう。そ のことは日本の歴史に大きな影を落としたから、戦争にまつわる局面以外の交渉・接触などは記憶と記録に残りにくく、 重要視されなかったようである。とはいえ、モンゴル・元朝と日本の双方の姿勢を観察してみれば、積極的姿勢を貫い たのはモンゴル・元朝の側であり、日本はどちらかといえば受け身であったといえよう。ただ考察者として警戒すべき は「暴虐きわまる不条理な圧迫と侵攻」「断固たる不屈の抵抗」などのイメージである。そうした前提から出発しては、 かくあってほしいとの願望を歴史学に持ち込むことにならないかと危惧するからである。まずは史料の分析・解釈の手
段によって外交交渉のあとをたどってみたいと考える。

( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 2
1
(
(
1
一 モンゴル・元朝の対日遣使
 遣使の次数と諸段階
表記の主題をめぐる史料は、少なくとも中国・朝鮮・日本の三地域に及ぶからそれぞれの地域の年次で表記される。 中国元朝の世祖期の中統・至元の元号表記、『高麗史』世家における元宗・忠烈王の即位以来の年次表記、日本の文 永・弘安などの元号表記があって複雑である。西暦に拠るか、西暦を並記するのが最も便宜ではあるが、史料整理作業 のなかで煩雑さを免れない。さらにいま問題とする遣使にしても研究史の上で「第○次」と確定した通説があるかもよ くわからなかった。次数の数え方は解釈によって異なってくるからである。しかし達成されなかったケースも含めて、 約十次にも及ぶモンゴル・元朝から日本への遣使の企てがあったこと、加えて元朝の意向を体して高麗国から三次の国 書や他にも高麗地方官の文書が伝えられたことなどは重く受けとめられてよいと思う。そこで筆者は遣使に対応させて 史料の存否を明示することを意図し、かつ自らの行論上の便宜のつもりで「元朝対日本国書・書簡表」「高麗対日本国
()
書・書簡表」を作成したのであったが、これも継続する論考で「補訂」として遣使の次数を変更するなどの不手際を犯
()
している。遣使の数え方の定説が一般に確立するまでの当面の便宜と理解していただきたいと思う。なお高橋典幸氏が
作成した「モンゴル襲来をめぐる外交交渉関係年表」はモンゴル・高麗・日本の地域を別けて年月を追って重要な記事
()
を配列したもので簡単ながら便利なものと思う。
表の作成はモンゴル・元朝からの遣使をその性質に従って諸段階に区分して展望することにつながった。つぎに掲げ
()
るのは旧稿に附した「元朝対日本国書・書簡表」(補訂)「高麗対日本国書・書簡表」(補訂)に基づきながら形を変えて
示すものである。

(
1威圧的勧誘の遣使
第一次 至元三年(一二六六)   黒的・殷弘・宋君斐・金賛 大蒙古国国書 不到達
第二次 至元四年(一二六七)   潘阜・李挺        大蒙古国国書・高麗国国書・潘阜李挺書
第三次 至元五年(一二六八)   黒的・殷弘・申思佺・陳子厚・潘阜    至対馬
第四次 至元六年(一二六九)   金有成・高柔       大蒙古国国書(中書省牒)・慶尚道按察使牒
第五次 至元七年(一二七〇)   趙良弼・徐偁・張鐸    大蒙古国国書
附   至元九年(一二七二)                高麗国国書
─── 至元十一年(一二七四)  第一次遠征(文永の役) ───
2軍事的緊張下の遣使
第六次 至元十二年(一二七五)  杜世忠・何文著・撒都魯丁・徐賛
                             元朝国書   刑死於鎌倉 第七次 至元十六年(一二七九)  周福・欒忠        范文虎書   刑死於博多
─── 至元十八年(一二八一)  第二次遠征(弘安の役) ───
3融和的懐柔説得の遣使
第八次 至元二十年(一二八三)  如智・王君治       元朝国書   不到達 第九次 至元二十一年(一二八四) 王積翁・如智       元朝国書   至対馬近海
附   至元二十九年(一二九二)              燕公楠書 附   至元二十九年(一二九二) 金有成・郭麟       高麗国国書

( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
2
(
第十次 大徳三年(一二九九)   一山一寧・(西澗子曇)    元朝国書
国書の実在如何について述べれば、第一次・第二次に関わる国書は写本により広く知られている。近時再発見の第四次
()
遣使の国書は大蒙古国中書省が発した宰相五名連名の書である。第五次遣使の国書は日本側の提出要求に対して国信使
趙良弼が副本を以て応じたもので、原本は伝わらないものの『元史』日本伝によって大要を知ることができる。第六次 遣使の杜世忠が齎した国書は遺憾ながら伝わらない。杜世忠ら使者五名が鎌倉・龍ノ口で処斬に遭った経緯を知るため にも重要なものであった。第八次の国書は日本の『善隣国宝記』により大体を知ることができる。第九次の国書は使者 王積翁が日本近海で乗組員によって殺害されたためにその内容は知るよしもない。第十次の国書は日本にいくつかの伝 本がある。第六次(杜世忠)・第九次(王積翁)の国書と至元九年の二度目の高麗国国書を見るを得ないことは、この分
野の考究のためにとくに惜しまれるところである。
上記の元朝の日本遣使一覧は、はからずも「日本側として受け止めた元朝の遣使」になっている。『経世大典』序録
の日本の項のはじめには元朝が日本に派遣した使者の名が高麗の使者とともに列挙されており、筆者は元朝政府として
派遣したものとの食い違いがありうることも指摘している。そこで問題としたのは第七次遣使であり、范文虎が日本へ
の進発に先立って周福・欒忠を派遣したのを元朝政府は公式の遣使とは数えなかった可能性があるとした。
 威圧的勧誘
モンゴル国から日本国への遣使の初期段階には、その国書中に軍事力の行使を示唆する文言が含まれ、また日本がモ ンゴル国に使者を派遣することで応えるよう要求された。威圧的勧誘と称した所以である。第四次遣使の際の国書(大 蒙古国中書省牒)が紹介されているいま、この点につき初期段階における三種の国書の文言を比較しつつ確認検討して

(
(
(
おきたい。
最初の国書は第一次・第二次遣使に関わり、第二次遣使の潘阜によって日本にもたらされたものでその一節にいう。
且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。以至用兵、夫孰所好。
しかも聖人は四海を家とするもので、(そのなかで)好よしみを通じないのでは天下を一家とする道理であろうか。兵を
用いるような事態に立ち至るとすれば、一体だれが好んでするところであろうか。
筆者は日本遣使に即した「以至用兵」の句づくりの諸例を挙げて、これが結局は相似た意味内容であっても「至於用
()
兵」とは異なると考えた。まず「至用兵」と三字に作るのは東大寺尊勝院旧蔵の写本(『鎌倉遺文』)のみであり、『元
史』世祖紀、同日本伝、『高麗史』、『高麗史節要』、さらに『異国出契』でもみな「以至用兵」に作っており、テキスト の成り立ちの上では「以至用兵」の四字は動かしようがない。従って「兵を用いるに至りては」(「至於用兵」)と名詞節
のように読むことに躊躇していたのである。
さらに筆者は『元高麗紀事』至元三年八月の記事に注目した。これは日本への使者黒的・殷弘らをまず高麗に送るに
際し、世祖が高麗国王王 に対日本政策を告げるために与えた詔であり、その一節にいう。
故特遣使持書以往、得遂通好為嘉。苟不諭此意、以至用兵、夫孰好之。
故にとくに使者を遣わし国書を持って行かせ、通好を達成することができればよろしい。もしもこの意向を諭せず
()
(分らせないままに)、兵を用いるような事態に立ち至るとすれば、一体だれが好むであろうか。
筆者は旧稿において、ここでは「以至用兵」の前段の句が存在するが故になんら無理のない自然な文章になっていると し、但し日本宛の国書の文言を『元高麗紀事』の文によって訂正しようとするものではないとも述べた。発する対象が 異なるからである。しかしいま一歩進んで考えてみれば、日本宛の国書で『元高麗紀事』の文脈のままに「苟不諭此

( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(
意」とは書けないからこの部分を単純に削除した。そこに日本宛国書では唐突で不自然な文章が構成されてしまった理
由があると考えたい。
最初の国書では、日本の使者派遣について「至於朕躬、而無一乗之使以通和好。(朕の治世になってからは、(日本か ら)一乗の使者が和好を通ずることもなかった。)」と、高麗の場合と対比しながら述べている。間接的な表現ながら日本 側の遣使を促した形である。第二次遣使に際してもたらされた高麗国国書では「其遣一介之士以往観之何如也。惟貴国 商酌焉。(ただ一人の士を遣わして、行ってよく観させてはいかがか、貴国はしかと検討されたい。)」と、高麗国王が日本に
対して使者派遣を側面から促している。
近年見出された第四次遣使の国書(大蒙古国中書省牒)にあっては、皇帝の勅書によるものと異なって中書省の宰相
五名連名の文書であり、具体的で直截な文言が並ぶ。この国書が再発見される以前には、『鎌倉遺文』巻一四、一〇三
八〇「蒙古来使記録」に「用兵之条、甚以不義之旨」とあるので、同様に軍事力行使への言及があることは推測されて
()
いたが、実際の国書を見ると厳しい内容・表現に溢れていた。その一節にいう。
其当詳体聖天子兼容并包混同無外之意、忻然效順、特命重臣、期以来春、奉表闕下、尽畏天事大之礼。保如高麗国 例処之、必無食言。若猶負固恃険、謂莫我何、杳無来、則天威赫怒、命将出師、戦舸万艘、徑圧王城、則将有噬臍
無及之悔矣。
ここは聖天子がすべてを包容してすべて一体であるとの意向をよく心得て、よろこんで恭順の誠意を示し、とくに 重臣に命じて、来春を期して闕下に表文を奉り、天を畏れて大に事つかえるの礼を尽すようにせよ。保証して高麗国の 例のように処遇して、きっと約束に違うようなことはない。それでもなおも国の堅固を恃んで、当方を何とも思わ ず、遠方ゆえ来ることもないと考えるようなら、それこそ天威は怒りが火につき、武将に命じて軍隊を出し、万艘

*1がある。
( )拙稿「劉宣の第三次日本遠征反対論」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要』史学編第十七号、二〇一八、所収)
参照。

*2参照。
( )『元高麗紀事』には、「九月六日」としてつぎのようにいう。
    (至元八年)九月六日、 遣其通事別将徐(稱)[偁]導送宣撫趙良弼使日本。
( )石井正敏「文永八年来日の高麗使について― 三別抄の日本通交史料の紹介― 」(『東京大学史料編纂所報』一二、
一九七八、所収、また『石井正敏著作集』第三巻、高麗・宋元と日本、二〇一七、に再録)参照。
( )『吉続記』文永八年九月三日より七日に至る。
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝にいう。
    舟至金津島、其国人望見使舟、欲挙刃来攻、良弼捨舟登岸 旨。金津守延入板屋、以兵環之、滅燭大譟、良弼凝然 自若。天明、其国太宰府官、陳兵四山、問使者来狀。良弼数其不恭罪、仍 以礼意。太宰官愧服、求国書。良弼曰、

*3、山本光朗
「元使趙良弼について」(注( )参照。
( )荒木見悟『大応国師語録』(崇福禅寺語録)(一九八二)にいう。
    半夏上堂。「九夏過半、無事不辦。開単展鉢、喫粥喫飯。収得北番、東西自安。......」     半夏の上堂。「九十日にわたる夏安居も、半ば経過し、何事も平穏である。開単も展鉢も、喫粥も喫飯も、すべて型
の通り。北方からの使者をうまくさばいて、国内は平和である。......」
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝の文(注( )に続けていう。
    後帝将討日本、三問、良弼言、「臣居日本歳余、覩其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親・上下之礼。其地多山水、無 耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、塡無窮之巨壑也、
臣謂勿撃便。」帝従之。
( )『元史』巻一一、世祖紀至元十八年正月辛丑(四日)条にいう。     召阿剌罕・范文虎・嚢加帯同赴闕受訓諭、以抜都・張珪・李庭留後。命忻都・洪茶丘軍陸行抵日本、兵甲則舟運之、
所過州県給其糧食。......
  また同二月乙亥条(九日)条にいう。
    詔諭范文虎等以征日本之意、仍申厳軍律。

(1 モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(( (2 (1 (0 (( ((
1
(
( )『元史』巻一一、世祖紀至元十八年六月庚寅(二十六日)条にいう。
    以阿剌罕有疾、詔阿塔海統率軍馬征日本。
  また同七月己亥(六日)条にいう。
    阿剌罕卒。
( )『元史』巻八、世祖紀至元十二年二月庚戌(九日)条にいう。
    遣礼部侍郎杜世忠。兵部郎中何文著、齎書使日本国。
( )『元史』巻一一、世祖紀至元十七年二月己丑(十七日)条にいう。
    日本国殺国使杜世忠等。征東元帥忻都・洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之。
  また拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(注( )参照。
( )『高麗史』巻二九、忠烈王世家、忠烈王五年(至元十六、一二七九)八月条にいう。     梢工上左・引海一冲等四人、自日本逃還言、「至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎将徐賛及梢水三十人、送至其国、
使者及賛等皆見殺。」王遣郎将池瑄押上左等、如元以奏。
( )『元史』巻一一、世祖紀至元十八年二月乙亥(九日)条にいう。
    詔諭范文虎等以征日本之意、仍申厳軍律。
  この記事が上述の「陛辞」の日付となると考えられる。
( )この史料については拙稿「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(注( )で扱った。詔書も訳文
もそのままここに再録する。しかしその時には筆者はaの日本からの遣使で「入覲」の語が使われているのに苦慮し、 最も有力なのは「趙良弼の遣使に関わるもの」として前述の使節団とし、いまひとつの可能性を世祖に接見された塔二

(2 (( ((
郎・弥二郎のケースとしておいた。
( )筆者は『春秋左氏伝』をふまえた語と解釈して以下のように論じた。
    「定言」とは公式の命令の基となる確実な意志に裏打ちされた定まった(確かな)言葉を意味するであろう。国書に 引き付けて言えば、国家の意志としての皇帝の言葉はすでに日本側に伝えてあり、それを忘れてはおらぬだろうと
の意味になる。
( )『元史』巻二〇八、日本伝にいう。
    (至元十八年)二月、諸将陛辞、帝勅曰、「......又有一事、朕実憂之、恐卿等不和耳。仮若彼国人至、与卿等有所議、
当同心協謀、如出一口答之。」

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(1
(
(
2
【余論】
趙良弼(一二一七~一二八六)の至元八年九月二十五日付の書状については、近くは朱雀信城氏が取り上げて精細な
()
考究をされた。そこでは「文書の翻刻」「円爾宛説の根拠」「円爾宛説の検討」「武藤氏の活動」の節に分かち、本文書
研究史、位置づけ、大宰府の武藤氏の関わり方に及んで、行き届いた考察で大いに有益である。しかし何といっても
論説が重きをおく焦点は書状の読み方であろう。またそれこそ氏が『太宰府市史』中世史料編で翻刻し、読み下しと注
()
釈を付して公表された成果を補完する続編というべきものであった。
いま筆者が敢えてここに一文を草せんとするのは本文書の翻刻と読み方について或いは新しい解釈が可能かもしれな
いと思ったからであり、朱雀氏並びに諸賢のご批判を仰ぎたいと念願している。朱雀氏以前に本文書を読んだ方々とし
()()()
ては、池内宏、西尾賢隆、山本光朗ほかの諸氏があり、朱雀氏が当然視野に入れて言及される。また江戸時代天保頃の
豊前(また豊後とも)の儒者伊藤松の編著『鄰交徴書』初編巻一に本文書の引用があり役に立つ。なお『鎌倉遺文』古 文書編、第一四巻、一〇八八四「蒙古使趙良弼書状(山城東福寺文書)」はその翻刻であるが、正確さを欠く箇所があっ
た。
結局朱雀氏が言われるように、本文書を解読するには原文書の影写・影印によるのがよいということになる。東京大 学史料編纂所所蔵影写本『東福寺文書』に収録されるものがある由だが、筆者もさしあたり『国威宣揚元寇展図録』 (一九三八、大阪市役所)所載の影印によって翻刻を試みた。つぎに拙案を掲げるが、行論の便宜の上からこの部分のみ
    趙良弼書状についての考察

(( 1( 1( 12 11 10 ( ( ( ( ( ( ( 2 1
正字(旧漢字)によることとする。
 大蒙古國皇帝差來國信使趙良弼、欽奉
 皇帝聖旨、奉使
[少]
 日本國請和、於九月十九日、到大宰府、有守護所小貳殿、阻隔
[將]
 不令到京。又十餘遍、堅執索要國書、欲差人特上
 國王并
 大將軍處去。良弼本欲付與、縁
 皇帝聖訓、直至見
 國王并
 大將軍時、親手分付、若與了別人収受、即當斬汝、所以不分付守護所
[少]
 小貳殿。先以將去國書副本、並無一字差別、如有一字冒書、本身
 萬斷、死於此地、不歸郷國。良弼所賚御寶書、直候見
 國王并
 大將軍、親自分付。若使人強取、即當自刎於此。伏乞照鑒。
[川] [少]
   至元八年九月廿五日、陝西四州宣撫使・小中大夫・秘書監・國信使趙良弼
筆者が朱雀氏の所説に接してまず違和感を覚えたのは、これが中国人趙良弼によって認められた真情あふれる書簡で
あり、中国人ならば果たして朱雀氏が翻刻されたような漢文を書くだろうかという疑問である。但し筆者は中国の書簡
文や語類・語録に格別詳しくもなく古文書学にも疎いものであるから、錯誤を冒す虞れは多分にある。ただ中国の歴史

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
  文献には親しんできたし、元代史を専攻した関係から『元典章』のような特殊な漢文を扱った経験があるだけである。
そんな危惧を脇において敢えて試案を提示しようとしている。
疑問の発端は「者」か「去」かの問題である。朱雀氏は六行目と十行目といずれも「者」としている。しかしここは 『鄰交徴書』でどちらも「去」と読んでいるのに従いたい。原文書を見ると「去」字の第三画の横線は第一画よりも短 い。「者」と「去」とは似ているとはいえ、草書の場合に「去」の第三画の横線を短くする例が多いようであり、ここ
の文章に即しても違和感がない。中国では「去」は去さ るではなく、去ゆ くである。国書を「将去」するとは「もちゆく」
であって、「もち去る」ではない。「もち去る」と読んでは日本語で別の感覚、ニュアンスを生んでしまう。 そうなると四行目の「特上」から六行目の「去」までの意味が解けると思いついた。筆者は「将上去」に見覚えが あったからである。つまり「特上」は「將上」の字の誤りではないかと。本文書が親筆ではなく写本に違いないことを
前提にしての話だが、「特」字は「將」字と字形が類似し、「牜」(うし偏)は「爿」(しょう偏)と似て、右下部の「寸」
は共通する。
それでは「将上去」とは何か。『元典章』三四、兵部巻一「乾討虜依例軍器糧食」条にいう。(原文に傍線を付す。
以下同じ)
大徳六年二月初八日、欽奉聖旨節該、「枢密院官人毎奏、『亦乞不薛賊毎根底、收捕的上頭、有心乾討虜去的人毎有 也者。那般有心去的根底、軍器・糧食、依体例交与呵、怎生。』麼道奏来。如今、乾討虜有心去的人毎根底、軍 器・糧食、依体例与了、得来的財物、他毎将上去、官人毎根底与有、麼道、不揀是誰、休要者。 這般宣諭了呵、得 来的財物根底要的人毎、不怕那甚麼。」欽此。
いま全文の翻訳を掲げるのは避け、傍線部のみ以下に示す。

(
((
      いま乾討虜に去ゆ こうとする人らに軍器・糧食を体例どおりに与えてあるのに、得たる財物は彼らがもっていって官
()
人たちに与えていると(いうことであるので)誰によらず、(財物を)求むる勿れ。
乾討虜とは軍隊が平定に向かった先での住民に対する略奪行為であり、兵士の無秩序な行動を禁止する趣旨の判例であ る。これは『元典章』によく現れる「蒙文直訳体」と称される異例の漢文であり、白話(口語的文体)の要素が取り込 まれているのであって、もとより趙良弼がモンゴル語を意識して書状を書いたというわけではない。
いま一つの事例。『元典章』三六、兵部巻三「鋪馬禁駝段疋」条にいう。
至元五年四月、中書右三部承奉中書省扎付、有線真官人伝奉聖旨、「道与中書省并制国用使司官人毎。両番有人来 説、『用鋪馬駝運段疋北去有。』今後但将上去底段疋、鋪馬休駝、教車子裏来者。」欽此。
ここも傍線部のみの翻訳を以下に示す。
二度、人が来て言った。「鋪馬(駅伝用の馬)を使って織物を馬に載せて運び北に往っています」と。今後、およそ
持って往く織物は、鋪馬にて運ばず、車で来させよ。
また「将上来」の語もある。『元典章』三八、兵部巻五「打捕鷹鶻擾民事」条にいう。 至元三十一年六月二十三日奏、月的迷失、在前欽奉先皇帝聖旨、「打捕的鴉鶻・黄鷹・角鷹・双 、好底、差人 将上来者、歹底、他那裏飛放(着[)者]。」麼道、聖旨有来、奏呵、奉聖旨、「依着先皇帝聖旨者。」麼道、聖旨了也。 欽此。又於七月十八日、昔博赤木発剌伝奉聖旨、「荅剌罕将来底鴉鶻歹有、月的迷失根底説者、他不錯了有。将鴉
鶻来者。差好人、将上来者。」麼道。欽此。 「将上来者」とは「もち来たれ」(「者」は命令形)である。「将去」が「将来」と反対の動作であると納得されよう。
さらに『元典章』新集刑部、刑制「発付流囚軽重地面」条には、「流将迤東去的罪囚毎、都発将奴児干裏去有。」(迤い

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
とう ヌルカン
東に流しやられゆく罪囚らは、すべて奴児干に発し往かせている)とある。「将」と「去」の間に目的語を入れる例である。
これで趙良弼書状の四行目の「特上」から六行目の「去」に至る文の構造が説明できるであろう。すなわち「欲差人 将上国王并大将軍処去」は「人をやって国王并びに大将軍の処にもってゆこうとした」である。
十行目の「先」字について「先以」を「以先」にすべきか、或いは「先」は「元」と校すべきかと考えてもみたがこ のままでよいのかもしれない。十四行目の「陝西」は『鎌倉遺文』では「使西」とあるが、原文書では「 」に見えな くもない。四川の「川」が字形が崩れて「州」のようにも見えるが、「川」が正しいことはいうまでもない。あとから なぞって訂正したのであろう。「小中大夫」は文散官従三品の「少中大夫」が正しく、後には亜中大夫に改められた。
こうした書状に限らないが、中国文では二字(二音節)を意識することが多い。書状中の「欽奉、差来、将去、堅執、 索要、強取、直至、直候、親手、親自」みなそうである。「即当」も西尾賢隆氏が読んでおられるように「ただちに」
であろう。
最後に趙良弼の熱誠を念頭において多少意訳の度が過ぎるかもしれないが翻訳してみよう。
さしつかわ わたくし
 大蒙古国皇帝が差来した 私 国信使趙良弼は、皇帝聖旨を欽奉して日本国に奉使して和平を請わんとし、九月十
みやこ 九日に大宰府に到りましたが、守護所小弐殿が阻んで京に往かせませんでした。さらに十何遍もきつく国書を要
求し、人をやって国王并びに大将軍の処にもちゆかせようとしました。  私はもとより国書を渡そうとしているのですが、皇帝のご指示では、国王并びに大将軍に見あ う時に手ずから渡す よう、もしも他人に受け取らせるなら、ただちに汝を斬るぞというので、だから守護所小弐殿に渡さなかったので
す。
 さきにもっていった国書の副本は(正本と)一字の違いもありませんから、もし一字でも書き誤りがあれば、こ

(
( (
((
の身は八つ裂きになろうと、この地に死し祖国に帰りません。
 私がもたらした宝璽の国書は国王并びに大将軍にお見あ いしてからみずからお渡し致します。もしも人にむりに奪
わせるようなら、ただちにこの場でみずから首刎は ねる覚悟です。どうかよくお考えください。
   至元八年九月廿五日、陝西四川宣撫使・少中大夫・秘書監・国信使趙良弼
こうしてみると、本書状は趙良弼が日本の国都京都にいる円爾に宛てて送ったと強いて考える必要はないと思える。国
書副本の内容の確かさを保証誓約するために書かれたとする山本光朗氏の説は傾聴に値すると思う。加えて天皇并びに
将軍と会見の機会を得たいといまひと押しの要望をしているのであろう。そのために正本を手放さなかったのであるか
ら。
この書状を読んでまず感じられるのは『元朝名臣事略』に引用される李謙(一二三三~一三一一)が撰した趙良弼の
墓碑の文(延いては墓碑を材料とした『元史』趙良弼伝の文)の趣旨そのものだということである。趙良弼の伝記また彼
() くだり の周辺のことは山本氏の諸論説に詳しい。ところで書状中の「十余遍」も国書を渡せと責められた件に接すると、墓
碑に彼が宿所で「喧呶叫号、夜至十余発」と脅迫された(もっとも彼は睡眠妨害されても平然と大鼾で寝ていたというのだ
()
が)という文と無関係とは思えないのである。当該の書状の草案を趙良弼が所持していたのは当然であり、彼の帰国後、
たとえ没後であれ、墓碑の撰者李謙の手にも渡った可能性がある。何ゆえに筆者がそのような細事に想いをめぐらすか というと、趙良弼という人は父や親族が金朝のために生涯をささげたことに誇りを懐き、かつ女真系の家に生まれなが らモンゴル国のために重大な外交交渉の任務を命を懸けて達成することに人生の大きな意味を自覚していたからである。 世祖から若くないのだからと憫あわれまれるところを、固く日本遣使の任に当たりたいと希望した。その際彼が世祖に嘆願
() したのは、翰林院の学者に命じて自らの碑文を書いてほしいということであり、世祖はその願いを聴きいれた。趙良弼

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 ((((21
2
(1
はそのような誇りと使命感を以て歴史に名を刻みたいと念願していたのであり、李謙こそは彼にとって最も望ましい翰
林官であった。
なん ぽ じょうみん
趙良弼と大宰府守護所との遣り取りをつぶさに経験した通訳の南浦紹明(大応国師)によって趙良弼書状の写しが作
()
られ、それがやがて故郷駿河の先達でもある円爾(聖一国師)の手に渡った。そして当時建立されて円爾が開山となっ
東福寺円爾関係文書として伝わったという次第ではないだろうか。

( )朱雀信城「至元八年九月二十五日付趙良弼書状について」(『年報太宰府学』第二号、二〇〇八)所収)参照。
( )『太宰府市史』中世史料編(二〇〇二)、史料一〇四「東福寺文書、蒙古国信使趙良弼書状案。なお『太宰府市史』通 史編(二〇〇四)、第一編第二章第三節「蒙古襲来」の九〇頁に、後述する『国威宣揚元寇展図録』所載図版の写真版が
掲げられている。
( )池内宏『元寇の新研究』(一九三一)、一〇三頁。
( )西尾賢隆「モンゴル襲来前夜の日元交渉の一面──趙良弼と大応──」(『山雲海月』第三期、一九九九、のちに同
『中世の日中交流と禅宗』(一九九九)第一章の補論 として再録)。
( )山本光朗「元使趙良弼について」(『史流』第四〇号、二〇〇一)。
( )拙著『元代江南政治社会史研究』(一九九七)第三部第二章「苗軍の軌跡」、四四三頁に全文を翻訳している。

10 ((( (
(0
( )注( )のほか、山本光朗「趙良弼について(一)」(『北海史論』二〇、二〇〇〇)、同「趙良弼撰「黙庵記」につい
て」(『史流』四一、二〇〇四)、同「趙良弼と元初の時代」(『アジア史学論集』四、二〇一〇)参照。
( )『元朝名臣事略』巻一一、枢密趙文正公にいう。
    数以兵威相恐、或中夜排垣破戸、兵刃交挙、或火其鄰舎、喧呶叫号、夜至十余発、公投牀大鼾、恬若不聞。
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝にいう。
    至元七年、以良弼為経略使、領高麗屯田。良弼言屯田不便、固辞、遂以良弼奉使日本。先是、至元初、数遣使通日
本、卒不得要領、於是良弼請行、帝憫其老不許、良弼固請、乃授秘書監以行。良弼奏、「臣父兄四人、死事于金、乞
命翰林臣文其碑、臣雖死絶域、無憾矣。」帝従其請。
たきょう わらしな
( )南浦紹明は幼時旧安倍郡(現静岡市葵区)の建穂寺で修業した。そこから藁科川をさかのぼり奥藁科の栃沢が円爾
生誕の地という。建穂寺は白鳳期から続いた大寺であったが、明治初期の廃仏毀釈と火災に遭い廃寺となった。現在は
町内住民有志により仏像などが守られている。

*1:
(1
(
(
もの戦艦でもって、ただちに王城をおし潰つぶそう。そうなったら臍ほぞをかんでも及ばないとの後悔をするばかりである。 十分に圧力に満ちた表現というべきであろう。日本国王がその重臣に命じて来春までに「奉表遣使」せよとの要求であ る。しかも日本が堅固を恃んで対応しなければ大艦隊を派遣し王城を制圧するであろうと、前回の「用兵」の二字に比
()
べてはるかに具体的に軍事行動を示唆している。実際に大艦隊は十年後の第二次日本遠征(弘安の役)において実現し
た。
日本への待遇は高麗の例に準ずることも明示されている。重臣に遣使を命ずることは高麗の場合にいくつも例がある。
第三次遣使の際に高麗の重臣申思佺(知門下省事)・陳子厚(侍郎)が随行して来日したが、これは世祖が高麗国王へ下
した詔に「卿はきっと重臣に案内させ、さきのように引き延ばしをしてはならぬ。(卿当令重臣導送、毋致如前稽阻。)」
()
とあるのに応じたものであった。至元六年(一二六九)段階でモンゴル国が日本に要求するのはまずは「奉表遣使」
(「奉書遣使」)であるが、実際日本に期待するところは高麗をモデルとする「内附」「臣属」であり「事大」への誘導で
あっただろう。当時の日本にしてみれば、国書の文面をそのままには受け容れがたいと警戒させるに十分であったと考
()
えられる。
第五次遣使は趙良弼が担ったもので、日本に到達したもののなかで彼こそは最も使者らしい働きをしたと評価できる。 ここでは対比のために彼がもたらした国書について検討しておきたい。趙良弼が今津に到着したのは至元八年(文永 八、一二七一)九月十九日であった。大宰府守護所からの度々の国書引き渡し要求があったが、彼は、国書は日本国王 あるいは将軍に面談が実現した折に提出すべきものとして要求を断固拒絶した。しかし最終的に国書正本と同内容の副 本を提出したから、これにより国書の内実は確かに幕府・朝廷に伝わった。その副本は伝わらないが、『元史』日本伝 によって内容はほぼ知り得ると考えるよりない。その一節にいう。

( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(1
3
如即発使与之偕来、親仁善鄰、国之美事。其或猶予、以至用兵、夫誰所楽為也。
もし直ちに使者を発して(趙良弼と)同道して来るならば、仁者に親しみ鄰邦に親善するもので、お国にとって美 事である。もし引き延ばしをして、兵を用いるような事態に立ち至るとなれば、一体だれがするのを望むところで
あろうか。
趙良弼は日本が直ちに使者派遣の行動を決断するよう要請した。しかも彼が日本側に対して設定した回答期限は同年 十一月であった。もちろん背後に切迫した軍事力行使の圧力を伴う言葉があってのことであろう。国書に見える「用 兵」に関わる文言そのものは最初の国書の表現に立ち戻ったようであるが、趙良弼と大宰府守護所との折衝は並々なら
ぬ緊張に満ちたものであったと推察できよう。それでなければ後述するような弥や 四し 郎ろうらの行動を説明できないと考える
からである。
 使者の称その他
まず取り上げたいのは第八次の遣使である。日本に伝わる『善隣国宝記』の「接待庵記」によれば、如智らが皇帝に
奏上して許されたとあるのだから元朝の正式な遣使の企てと認めてよい。池内宏氏は「提挙王君治を国信使として如智
を同行せしめたのが其の第一回」であるとし、このとき「正使たる王君治自身が日本に赴くことを欲しなかった」ので、
() この回の挙は成功せず「王積翁を宣諭使とする第二回」に連なるとされた。しかし元朝側には王君治を国信使としたと
の記録は存在せず、彼個人の事績もまた追跡できない。
そこで至元二十年に至る提挙の用例を『元史』によって調べてみた。詳細は省略するが、提挙なる官としては「交鈔
提挙」「提挙和糴」「榷茶提挙」「市舶提挙」「提挙河渠」「河渡提挙」「人匠提挙」「鉄冶提挙」「提挙常平」「宣課提挙」

10
「田賦提挙」などの経済関係が多く、また「提挙礼楽」「提挙学校」「儒学提挙」「医学提挙」などの礼制・学校関係があ
バイギアリウ
る。いま注目したいのは江南の船舶に関わる市舶提挙であり、『元史』巻一二九、百家奴伝にいう。
明年(至元十六年)......七月、遂朝于上都、陞鎮国上将軍・海外諸蕃宣慰使、兼福建道市舶提挙、仍領本翼軍守福
建、俄兼福建道長司宣慰使都元帥。
また『元史』巻一二、世祖紀至元二十年三月丁巳条にいう。
罷福建市舶総管府、存提挙司、併泉州行省入福建行省。
福建の市舶提挙とすれば日本への渡航に関わる提挙官としてはもっとも考えやすいところと思う。その官品については
『元史』巻九一、百官志、市舶提挙司に至元二十三年以後の沿革を記す末尾にいう。
延祐元年、弛其禁、改立泉州・広東・慶元三市舶提挙司。毎司提挙二員、従五品、同提挙二員、従六品、副提挙二
員、従七品、知事一員。
後代の記録に拠るわけだが、提挙は従五品の官である。因みに『元典章』七、吏部巻一、官制、職品、「内外文武職品」 により提挙の職名を検してみると、内任(中央政府勤務)の万億庫の都提挙が正四品と提挙の職名を有するもので一等 高いが、前掲のような外任(地方勤務)の「諸司提挙」(学校関係を含む)や「榷茶提挙」「鉄冶提挙」「市舶提挙」はみ
な従五品である。
ところで日本への使者の首席には通例として兵部侍郎や礼部侍郎が任じられ正四品である。趙良弼の場合は特別で少
中大夫・秘書監の従三品であった。さらに官品の高い王積翁についてはのちに言及する。こうした諸例を勘案しても、
提挙の王君治が正使であった可能性は低いと考えざるをえない。また王君治が正使であったなら『経世大典』日本の条
の冒頭に列挙される日本への使者の名録にその名があってよいはずである。筆者は遣使の主役は普陀山の長老の如智で

11
モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(1
(1
(1
()
あるべきで、提挙の王君治ではないと考えている。なによりも「接待庵記」に載せる「宣諭日本国詔」には「今、長老
如智・提挙王君治を遣し、詔を奉じて彼に往かしむ」とあるから、王君治が如智を輔佐する副使的立場にあると理解す
るのが自然である。
西尾賢隆氏は諸史料が如智を中心として記していることに注意し、彼が「国信使であるかのような感を懐かされる」
としながら、王積翁と同行した第九次遣使について如智を国信副使とし、のちの成宗期の一山一寧も国信使となったと
()
考えられた。しかし仏僧たる如智が文官の国信使に任命されたかは疑問であり、ここは後代の一山一寧の遣使の先駆と
考えればよいと思う。『元史』巻二〇、成宗紀大徳三年三月癸巳条の一山一寧に関わる日本国王宛の大元皇帝の国書
の一節にいう。
命妙慈弘済大師・江浙釈教総統補陀僧一山、齎詔使日本。詔曰、「有司奏陳、『向者、世祖皇帝嘗遣補陀禅僧如智及
王積翁等、両奉璽書、通好日本、咸以中途有阻而還。......』」
妙慈弘済大師・江浙釈教総統補陀僧一山に命じて、詔を齎して日本に使いさせた。詔に曰く、「有司が奏上してき た。『さきごろ世祖皇帝が嘗て補陀の禅僧如智及び王積翁らを遣わして二度にわたり璽書を奉じ、日本に誼みを通
じようとしたところ、みな中途に障害があって戻ってきた。......』」 有司が奏上した中に言及されるところであり、如智、ついで王積翁と両次にわたって日本遣使が実行されたがどちらも 途中に支障があって目的が達成できなかったと述べられている。このような間接的な形で第八次・第九次遣使の記録が
『善隣国宝記』以外にも実は『元史』に残っているわけである。
つぎに問題にしたいのは使者の肩書である。上に引用した池内氏の文には王積翁を宣諭使としており、また既刊のさ
() まざまな著書・論文でも元朝から日本への使者を宣諭使あるいは招諭使とする例をしばしば見かける。筆者は元朝が日

(1
12
本に国書を送り届けて親善関係を構築し促進すべく説明し説得する職務を表現する、いわば汎称としてこれを受け止め てきた。しかし考えてみれば、日本に派遣する使者の正式な職名が宣諭使や招諭使ならば元朝政府から受け取る辞令に そのように書かれていなければならない。『元史』巻一九、成宗紀大徳元年七月甲申条につぎのようにある通りである。
詔出使招諭者、授以招諭使・副、諸取薬物者、授以会同館使・副、但降旨差遣、不給制命。
詔し出使して招諭する者には招諭使副を授け、諸すべて薬物を取る者には会同館使副を授けるが、但た だ旨を降して差遣
する場合には、制命を給しない。
招諭使・招諭副使、会同館使・会同館副使という目的・職掌に見合った正式の職名があった。通例として元代の日本へ
の遣使には国信使の職名が用いられたと思う。文字通り国書を日本に持参して届けるとの意味である。
国信使は中国国内の勢力分立や中国周辺諸民族の国家形成の動向に対応して、緊張する諸国家間を往復する使節とし
て発足した。五代十国の時代に国信使の職名は現われ、宋・遼両国間には互いに相手を北朝国信使・南朝国信使と称し
()
使節が往来した。宋と金との間にも派遣の目的に沿う名目の国信使の往来があった。即位国信使、報問国信使、歳元
国信使、生日国信使などである。モンゴル・元朝も当然前代の例を引継いだ。初期には対立する金に対して国信使が派
かくけい 遣されたし、南宋に派遣されて長年抑留されたまま還されなかった国信使郝経はもっとも有名である。日本以外では安
南・緬にも国信使は派遣されたことがある。
日本への最初の国信使派遣について『元史』巻二〇八、日本伝にはいう。
(至元)三年八月、命兵部侍郎黒的、給虎符、充国信使、礼部侍郎殷弘給金符、充国信副使、持国書使日本。書曰、
......
第一次遣使が不首尾に終わったのち、日本への国書の伝達は高麗の官人に委ねられた。第二次遣使の高麗の潘阜・李挺

1( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(1
(1
(1
()
の場合は世祖による任命ではなく、高麗国王による任命の形をとる。『元史』巻二〇八、高麗伝にいう。
(至元四年)九月、 遣其起居舎人潘阜・書状官李挺充国信使、持書詣日本。
第五次遣使の趙良弼の場合について『元史』日本伝にいう。
(至元)七年十二月、詔諭高麗王 送国信使趙良弼通好日本、期於必達、仍以忽林失・王国昌・洪茶丘将兵送抵
海上、比国信使還、姑令金州等処屯駐。
(至元)七年十二月、高麗王 に詔諭して国信使趙良弼を送り日本と通好し、必ず到達するようにし、なお忽フ 林リム
チ ひき いた しばら
失・王国昌・洪茶丘に兵を将いて海辺まで送り抵り、国信使が還るまで、姑く金州等処に屯駐させた。
第六次遣使の杜世忠・何文著については『元史』巻八、世祖紀至元十二年二月庚戌条にいう。
遣礼部侍郎杜世忠・兵部郎中何文著、齎書使日本国。
『元史』日本伝と『元文類』巻四一、雑著に引く『経世大典』政典序録、征伐、日本の項では何文著の官名を兵部侍郎
()
に誤っている。兵部郎中は侍郎より一等下った従五品官である。ところが両名とも『元史』に国信使の記載がない。た
だ『高麗史』巻二八、忠烈王世家にいう。
(忠烈王元年三月)辛巳、元遣宣諭日本使礼部侍郎(殷[)杜]世忠・兵部郎中(河[)何]文著来。
果たして杜世忠の職名が宣諭日本使であったならば、何文著は宣諭日本副使ということになる。筆者は、杜世忠らが日
本に宣諭する任務を帯びて高麗に到着したという、高麗側の受け止め方がこのような記事となって残った可能性がある
と思う。周知のように杜世忠ら使者一行五名は鎌倉に送られて処刑された。処刑の情報が実際に元朝に届いたのは四年
()
余り後のことであった。『元史』巻一二、世祖紀至元十七年二月己丑条にいう。
日本国殺国使杜世忠等。征東元帥忻都・洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之。

1(
また『元史』巻二〇八、日本伝にいう。
(至元)十七年二月、日本殺国使杜世忠等。征東元帥忻都・洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之。
もしも従前の国信使ではなく宣諭使という新規の職名のもとに来日したのであれば、もたらした国書中の形式的文言の 変化と相まって幕府を刺激した一因と考えられないでもない。しかしここに少し問題がある。明・陳邦ほう瞻せん撰『元史紀事 本末』巻四、「日本用兵」には『元史』日本伝によりながら、「十七年二月、日本殺国信使杜世忠等、......」としている。 さらに清・高宗勅撰『欽定続通志』巻六〇、元紀四、世祖三には『元史』本紀によりつぎのようにいう。
(至元十七年二月)己丑、日本国殺国信使杜世忠等。
二次的史料である二つの文献であるが「国使」を「国信使」に改めている。古来誤りの多いとされる『元史』であり、 明代・清代の校訂の成果に学ぶべきかもしれない。筆者の現在の見通しとしては、『高麗史』により「宣諭(日本)使」 とすることには懐疑的であり、『元史』本紀と日本伝と二つながら杜世忠の職名を「国信使」に改めることには歴史文 献の校訂方法として躊躇されるので、たとえ「国使杜世忠」とあっても杜世忠の職名が実際には「国信使」であった可 能性があると考えておきたい。加えて一国の正式な使者(国使)を日本側が不当に処刑したとの非難の口吻を読みとる
べきところと思う。
つぎに「宣差」の語について検討したい。『善隣国宝記』所載の「接待庵記」の記事は前段と後段に分かれており、
前段は第八次・第九次遣使の時系列の簡単なメモであり、後段には「宣諭日本国詔」が引用されている。前段の末尾に
はつぎのようにある。
至元二十八年、歳次辛卯六月日、宣差日本国奉使・前住宝陀・五楽翁愚溪如智記。
さき 至元二十八年(一二九一)辛卯の歳六月、「宣差日本国奉使にして、前に宝陀(普陀)山に住持した、五楽翁と称する愚

1( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
11
1(
11
溪如智」と、メモを残した時と自身の身元を明記している。「宣差」は「宣もて差す」が原義の官制用語であろう。皇
帝が宣命により民間人を召し出して官に就けたもので、本来『金史』にみえる「宣差提控」「宣差捕盗使」「宣差規措所
()
官」などのような職掌を示す便宜の官であった。モンゴルは早くから金制を受け容れ、『元史』にも「宣差勘事官」「宣
()
差規措三白渠使」「宣差提点太医院事」が見え、宣差を証明する牌や印が与えられた。また元代に整備された制度のも
()
とでは、宣は五品以上の官に対して発する皇帝の辞令・命令を意味した。如智の場合には国信使の職名が賦与されたの
ではなく、「宣差日本国奉使」が職名に相当するであろう。僧にして文官の職名を帯していては、当時の日本ではか
えってその身に危険が及ばないとも限らない。同様に成宗期の一山一寧の場合も国信使ではなく、皇帝から与えられた
() のは「総統大師」、即ち「妙慈弘済大師・江浙釈教総統」であったと考えるべきではないだろうか。
() 第九次遣使の王積翁の場合には『元史』巻一八四、王都中伝のはじめに父の事績を記していう。
父積翁、......俄以為国信使、宣諭日本、至其境、遇害于海上。 なおこの人は南宋の地方長官(福建道宣撫使)として元朝に降り厚遇されたから、はじめから地位はかなり高く「中奉 大夫・刑部尚書・福建道宣慰使兼提刑按察使」として待遇され、戸部尚書にも就任し、さらに地方政府たる江西行省の 参知政事という宰相格のポストに就任しようとしたところで、急遽日本遣使の任に当たったのである。如智の「接待庵 記」に「甲申(至元二十一年)四月、又聖旨を奉じて参政王積翁と同ともに再び倭国に使す」とある。中奉大夫は文散官 従二品であり、六部の長官(尚書)は正三品、参知政事は従二品である。旧南宋出身であれ相当の高官と認められる。 彼は日本上陸を目前にして船中で殺害され、その訪日は不幸にして実現しなかった。日本では貿易や仏教文化を通して 南宋への親近感は深かったから、第九次遣使の成否はその後の歴史展開に大きな岐路となった可能性がある。

11
11
11
4
1(
 国書の形式・書式
既述のようにモンゴル・元朝の日本遣使を十次に数えこれらをその時々の遣使の形態・性質・背景から三期に分けた。 舩田善之氏は国書の文書形式の変遷を論じ、やはり三期に区分している。その文書形式とは、発信者から受給者に対し て国書をどのような言葉で発給するかを含めて問題とし、「奉書」形式・「致書」形式・「詔書」形式を三区分の根拠と
()
された。氏が区分した三期は筆者と合致するが、但し筆者は舩田氏が論拠とした文書形式の変遷とは考えていない。な
ぜなら「奉書」「致書」と「詔書」とが対置される概念とは捉えられないと思うからである。また「奉書」と「致書」
() しゅらい の別については前稿で論じたところであり、「奉書」の語の起源はやはり中国古典の『周礼』にあると理解すべきで、
たてまつ
日本が当初大蒙古国から形式上であれ過分の敬意を表されたと捉えない方がよいと考えた。「 奉 る」という日本語固有
の語感に左右されて受け止められてきた惧れはないのかと思う。元朝は「奉書」に謙遜のニュアンスが強すぎるとの考 えから「致書」に変更したのであり、それはすでに日本に対して軍事力を行使していた(第一次遠征)ことに加えて、 至元八年(一二七一)に大蒙古国に代わって「大元」の国号制定が宣言され、歴代の中華王朝に列したことへの自覚に 発する元朝官人のある種の自尊意識からの変更であったと考えたい。
() 第八次・第九次・第十次の遣使と国書については以前論じたところである。この時期になると、元朝は以前のような
大上段に構えた国書の発給をとりやめた。元朝政府の官人でなく江南(普陀山)の仏教僧を日本遣使に起用したことに 意義がある。使者の任命が皇帝によって確実に保証されたものであり、外交交渉の目的と目差す達成目標を明示し、先 方からの疑義に対してはこれを根拠として示して信義ある外交交渉に当たらせる一種の信任状のようなものに性質が変 わったと考えた。この使者に与えられた文書は皇帝聖旨の形式そのままであり、皇帝聖旨を中国流に表現すれば「詔」
(詔書)ということになるだろう。なお『鎌倉遺文』では第十次遣使について「元国王成宗書状写」と題して採録して

1( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
1
いる。筆者が「元朝国書」としたのは『経世大典』序録の記述に拠っている。すなわち元朝としては「奉書」、「致書」 の書式の別はあれ、日本宛の国書において一貫して変らない態度で接してきたとしているのである。
二 日本の対元遣使
 北条時宗の遣使:一二七九
大蒙古国・元朝からの度重なる遣使については人のよく知るところである。日本は大宰府において使者に応接し、朝
廷では返牒案も作成されたが鎌倉幕府はその発給を認めなかった。実質的に外交の主導権を握った幕府は外国からの外
交的圧力をはねのけ、国外からの軍事侵攻に備え、結局その防禦対策の効果と武士の奮戦があり、そこにたまたま台風
の襲来という自然的条件と相まって元軍は敗退した。このように一般に理解されているように思われる。ところが「遣
使」に限っていえば、日本からするモンゴル・元朝へのアプローチとしてはあまり注意が向けられなかったように思わ
れる。
まず日本史料に日本から元朝への「遣使」について言及があるのを確認しておきたい。元代江南の禅僧無学祖元が執
北条時宗招請により来朝した。その事情を伝える『鎌倉大日記』弘安二年(至元十六年、一二七九)にはいう。 時宗遣使于大元、招禅僧有名者、明州太守以祖元充之。 北条時宗が使いを大元に遣わして禅僧の名のある者を招き、(その要請に対して)明州の太守は無学祖元を充あ てた。
無学祖元の来日についてはよく知られているが、ここに幕府執権の時宗が「大元」に「遣使」したと明記されている。 あたかも建治元年(至元十二、一二七五)に元朝の第六次遣使の杜世忠らを処刑したこととは別件と考えていたかのよ

11
11
1(
きんざん
うである。無学祖元は江南の会稽の出身で径山・霊隠寺・育王山・大慈寺等で修業し、温州の寺にあって元軍の襲撃に
りんじん げ
遭遇し脅迫された折には端然と「臨刃偈」を唱えたので元軍兵士も害を加えず去ったという。いかにも祖元個人の履
歴・事績からみれば南宋の人と言ってもよいかにみえる。しかし厳密にいえば祖元が日本に渡ったのは南宋が滅亡した
あとであり、時宗が遣使したのはあくまで元朝であるから、時宗の使者が交渉にあたったのは元朝の官人でなければな
らない。浙東の明州は福建の北に位置し、遣唐使の頃から日本との窓口というべき海港都市であり周辺の仏教寺院も数
多く、元代の日本遣使に関わる舟山群島の普陀山にも至便のところである。ここは宋代には慶元府と称されたが、元代
には慶元路といった。明州太守とは元代の正式官名でいえば慶元路総管兼明州府尹である。筆者は前稿において『延祐
() 四明志』巻二、職官攷、慶元路総管府にみえる王剛中であろうと推定した。しかしそれは王剛中が王積翁の弟であった
()
ことと、王積翁がのちに日本遣使に関わって重要な役割を担ったことの印象からする筆者の誤謬であったと認めなけれ
ばならない。
建長寺史』編年史料編(二〇〇三)により、蘭渓道隆寂後、無学祖元来日に至る記事をつぎに摘記して掲げよう(原
文はカタカナ書き)。
弘安元年七月二十四日  未刻蘭溪道隆寂す
    十二月二十三日 北条時宗、傑翁宗英・無及徳詮の両僧に命じて宋朝の名僧を探尋して招聘帰朝せん事
を求む〔北条時宗書状〕
弘安二年        無及徳詮・傑翁宗英、天童山に登って環溪惟一を招聘せんとす、環溪老体を以て辞し、
法弟無学祖元に弟子鏡堂覚円を侍者としてこれを遣はしむ、無学祖元、上堂して別離
を告ぐ

1(
モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
11
1(
11
            桃溪徳悟、無学祖元・鏡堂覚円等を案内して帰国す〔延宝伝燈録〕
    六月      無学祖元、北条時宗招請に応じて博多に来朝す、円爾、乗輿を遣はして是れを海浜
に迎ふ〔聖一国師年譜〕
            円爾、無学祖元の入洛を喜び斎に招く、北条時宗出館他行を許さず〔聖一国師年譜〕
    八月      無学祖元、京より鎌倉に参着す〔元亨釈書
    八月二十日   北条時宗、無学祖元をして建長寺住持たらしむ、二十一日入院す〔関東御教書〕
これによれば二人の使僧無及徳詮と傑翁宗英が慶元路で路総管(明州太守)と接点を有しうるのは弘安二年(至元十 六、一二七九)前半と考えられる。とすれば、『延祐四明志』巻二、職官攷、慶元路総管府に見える総管の名録で合致す るのは、王剛中の後任の游介実となる。同書には游介実について「嘉議大夫、至元十五年十月、之任兼府尹。至元十八 年十二月、得代。」とある。嘉議大夫は文散官正三品で、『元典章』七、吏部巻一「内外文武職品」条に、正三品・外 任・民職として「上路総管兼府尹」とあるのと合致する。彼は南宋の官人であったところ元軍に降服した人で、元軍の
バヤン () 総司令官の伯顔に命じられて南宋朝廷に使者に立ち最終的降服勧告の詔書副本を届けたことが知られている。
たくそう 至元十三年(一二七六)三月、南宋の都臨安が陥落したのち、勤皇軍は度宗の庶子を奉じて南方に逃れることになる。
ここでその後の南中国、とくに浙東から福建の情勢について見ておこう。景炎元年(至元十三年)、南宋側にあって福建
せん ()
地方を任されたのが王積翁と黄●であった。知福安府であった王剛中は同年十一月にモンゴルの大軍がやって来ると城
()
を明け渡して降服した。どうやら王積翁が降服したのも弟と謀ってのこととみられる。モンゴルは浙東から福建につい
() ては自ら進んで降服した南宋の官人に対して差し当たり従前と同じ官を与えて遇することが決まっていた。王剛中は知
() 福州となって福建の平定に尽力しさらに宣慰使を与えられた。宣慰使とは福建宣慰使であろう。しかし南宋残党討伐戦

2
11
11
20
マングタイ ソ ド
の当時から、福建方面で真に信頼できるモンゴル軍の将軍は忙兀台また唆都であった。忙兀台は至元十四年に閩広大都
督・行都元帥府事となり、十五年に江西方面に出兵、福州にもどると福建行省参知政事として唆都と共に瀕海の八郡を
アラガン
鎮撫した。十六年には福建沙県での叛乱に対処するのに忙兀台・唆都・阿剌罕の間でいかに分担調整して対処するかが
議論となったが、これは三者が福建・江西・江浙各地域の治安をそれぞれ担当することで結着した。十八年には忙兀台
は福建行省右丞に昇進した。時に宣慰使の王剛中が土地の有力者の富力を背景にして勢力を扶植するのを警戒し、王剛
() 中が変乱を惹起する虞れがあるとして彼を他の地方に移すよう奏上し、おそらくその奏請は許されたであろう。この頃
になってようやく旧南宋勢力への干渉圧迫が強まってきたものとみえる。
鎌倉幕府執権北条時宗の遣使に応じて游介実が適切に無学祖元を日本に向けて送り出すのに関与したとすれば、至元
十六年(弘安二年)という年は絶好のタイミングであったといえよう。その二月に厓山の戦により南宋の残存勢力は討
() 尽され、福建地方の治安もまだ不安定であり忙兀台も対処しきれていなかった。祖元の渡航には商船の便を利用したで
あろうが、当時の江南の地域的情勢からみても、日本の幕府からの招請に応じての祖元の渡日は決して秘密の取引きの
成果ではなかったというべきであろう。
 日本の遣使とされるもの:一二七二
i 趙良弼の日本遣使
北条時宗の遣使より時を遡ること七年、日本からの遣使とされる使者の往来があった。『善隣国宝記』巻上、同(文 永)八年辛未、咸淳(八[)七]年、至元八年条にいう。
日本遣使如元報聘。『元史』曰、「日本始遣弥四郎者入朝、帝宴労遣之。」

21 モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 11
11
11
日本が使者を遣わし元に如ゆ き答礼した。『元史』にいう。「日本が始めて弥や 四し 郎ろうなる者を遣わして入朝し、帝は宴を
ねぎら
設けて労って還らせた」。
報聘(答礼)したというのは、趙良弼が使者として日本にやって来たことに応えたとの意味であろう。この日本の使者 が趙良弼の日本遣使(第五次遣使)と密接な関係にあることはつとに知られていたところである。池内宏氏は弥四郎に ついて「趙良弼は弥四郎といふ日本人を対馬あたりから伴れてきたらしく、さうして今津から博多の警固所に赴いた」 と述べ、また弥四郎を含む日本の使人について、「趙良弼の伝は......良弼の態度の強硬であった為めに、我が太宰府の 官憲が十二人の使者を元に朝せしめたように伝へてゐる。返牒の与へられなかった以上、これが我が国の正しい使者で なかったことはいふまでもないが、......」と述べられた。そして弥四郎らの使節は趙良弼の意図に発するものであり、 派遣には大宰府の官憲の同意を得たとして、今日に伝わる使節の事績は誇張や思惑に影響されていると考えられたよう
()
である。筆者は池内宏氏の所説のすべてに賛成するのではないが、日本の使節団が趙良弼の構想に発し、その粘り強い
()
交渉の結果として実現したことは確かであると考える。かつその使節は日本の朝廷や幕府からの保証を得ていなかった
から一片の文書すら携行せず、それが世祖との会見がついに実現しなかった原因となったとも考える。したがって本節
題には「遣使とされるもの」を掲げたのである。「擬使」とも言い得よう。
() この使節団については山本光朗氏や高銀美氏が論じておられる。山本氏は女真人出身の趙良弼の事績を追求し、『元
朝名臣事略』に引用された趙良弼墓碑史料を用いて多くの新知見を提示した。高銀美氏は大宰府守護所に焦点を当てて、
この時期に大宰府守護所が元朝・高麗との外交に関わり鎌倉幕府の外交権の掌握に寄与したことを明らかにした。両者
の論じる視角は異なるものの、ともに弥四郎を含むこの使節団について趙良弼の活動と合わせて論じている。なお筆者
も趙良弼の日本遣使に関連して使節団に言及するところがあったし、最近の論考では使節団に先立って、対馬から拉致

1(
11
22
されて世祖に接見された二人の日本人塔二郎・弥二郎に着目し、これが弥四郎と大宰府守護所関係者の燕京往還にも影
()
響を及ぼした可能性について指摘した。
さて『善隣国宝記』に見えるきわめて短い文のほかには日本史料にこの使節団について言及するところが欠けている。
とつあん
また幕末の大橋訥庵に『元寇紀略』の著があって本件に言及するところがあり、『伏敵編』(一八九一)にも引用され、
か しょうびん
柯劭忞『新元史』(一九一九)巻二五〇、日本伝にも影響を与えたところがあるが、ここでは適宜参考するに止めた。
根拠となる元朝及び高麗の史料について検討してゆこう。『善隣国宝記』に引用される『元史』とはつぎに掲げる同書
巻二〇八、日本伝、至元八年九月条にみえる文の後半の一節そのままである。
(至元八年)九月、高麗王 遣其通事別将徐(稱[)偁]導送良弼使日本。日本始遣弥四郎者入朝、帝宴労遣之。
() 前半の記事は九月に高麗国王が通事別将の徐偁を付けて趙良弼を日本に送り届けたというのであって、弥四郎らが元に
入朝云々は当然もっと後の翌年のことである。実際趙良弼が九州の今津(『元史』趙良弼伝には同音の「金津島」と伝えら
れる)に着船したのは九月十九日であった。『五代帝王物語』にいう。
はじめ
同八年九月十九日、筑前国今津に異国人趙良弼を始として百余人来朝のあひだ、軍船と心得て宰府さはぎけれど
ただし からひつ おさめ さし も、其儀もなくて、是も牒状也。但「辛櫃に納て金鎖を指て、王宮へ持参して帝王へ献れ。それ叶はずは、時の
もち かへる うけたまはり かき 将軍に伝てまゐらすべし。其儀もなくは持て帰べき由、王勅を 承 たれば、手を放つべからず」とて、案を書て
いだ およば ママ あらたむ 出したり。是も返牒に及す。此国、後は太元国と号す。威徳のまさるに従て名を 改 とかや。されば、始終いかな
おぼえ
るべきにかと恐しく覚侍り。
百人余りが到着したというからかなりの数の高麗人が同行したとみられる。出港したのは朝鮮半島南端の絶(景[)影]島 であり、対馬に寄港することなく真っすぐに今津に至ったことは山本氏の説かれる通りである。とすれば、池内氏が弥

2( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
11
11
11
11
四郎を対馬の人とした可能性は薄いとみなければならないのではなかろうか。筆者は金州あたりに逗留していた日本人
ではないかと推測する。趙良弼の突然の上陸によってかなりの混乱、騒動が生じたことが従来とも知られている。当時
()
の日本国内の情勢については石井正敏氏の研究によって知られるように、ほんの少し前にもたらされた「高麗牒状」を
()
めぐって朝廷では九月上旬には連日の評定が開かれていた。この高麗の内部勢力、即ち三別抄からの牒状は日本に対し
て蒙古の侵攻があるのを警告し、かつその勢力への日本の援助を期待する内容であったからである。九州に到着した趙
良弼一行に対する警戒は当然であった。
趙良弼の主張は明確であり、国書は京都において天皇に奉献したい、さもなくば将軍経由で伝達したいと、国書を九
州において手放すことは皇帝聖旨によって禁じられていると固く主張した。しかし「案を書かきて出いだ」すとあるように、趙
() 良弼は国書正本と内容の違わない副本を作成して提出したのであった。またその次第を記した円爾に宛てたとされる書
()
状が東福寺に伝わった。また日本が国書に対して返牒しなかったこと、国号を「大元国」と定めたことが書かれている
()
が、当然これらはその後の追加の記録である。さきの書状の冒頭にも「大蒙古国皇帝差来国信使趙良弼、欽奉皇帝聖旨、
云々」とある通りである。副本であれ国書の正文は今日に伝わらず、『元史』日本伝によっておよその内容が知れるの
みであるが、その冒頭部分には「(上天眷命)大蒙古国皇帝」の語が存在したであろう。さてその国書に書かれた内容
() はさきに「威圧的勧誘」として述べたように、日本に対して返答の期限をさほどゆとりのない十一月と設定し、モンゴ
ル国への日本遣使を自らと同道しつつ実現する提案などは、日本にとってハードルの高い要求であったと言わなければ
ならない。趙良弼は何といっても日本本土に初めて到来したモンゴル国の使者である。高麗の潘阜や金有成のような国
書の中継者ではない当事者であるから、日本にとってかつてない手強い交渉人として立ち現れたとみるべきであろう。
しかしながら趙良弼はただ剛直な性格の故に強硬姿勢を貫いたわけではなかった。彼は至元七年十二月の初めに燕京

1(
11
11
2( 11
() フリムチ
を出発し、翌八年正月十五日に軍官の忽林赤・王国昌・洪茶丘ら四十人とともに高麗に到着した。世祖の高麗国王元宗
宛の詔にみられるように、趙良弼を必ず日本に送り届けるために上記の軍官三名に命じて海辺まで同行させ、国信使が
帰還するまで金州あたりに屯駐させ、その間の食糧補給は高麗が責任をもって供給し、船艦を鳩集して金州で待機して
()
警戒させよというのであった。趙良弼は高麗に関わる当初、至元七年に高麗経略使として高麗の屯田のことを領するこ
とになったが、屯田が良策でないのを説いてこれを固辞し、その後に日本に使者に立つことになったのだった。また彼
() が日本に赴く際に、世祖は兵三千を給して警固させようとしたが、これも辞退し書状官二十四人だけを同行したという。
() ただ趙良弼は元宗にその側近の臣康允紹を同行させるよう願いでて、元宗もやむを得ず要請を受け入れたという。趙良
弼の周到で巧みな準備工作の一環であろう。
趙良弼がもたらした日本国王宛国書の一節には高麗情勢に関連してつぎのようにいう。
継欲通問、属高麗権臣林衍構乱、坐是弗果。豈王亦因此輟不遣使、或已遣而中路梗塞、皆不可知、不然、日本素号 知礼之国、王之君臣、寧肯漫為弗思之事乎。近已滅林衍、復旧王位、安集其民。特命少中大夫・秘書監趙良弼充国
信使、持書以往。
引き続き(日本に)通問しようとしたが、偶々高麗の権臣の林衍が乱をかまえる事態となり、そのせいで果すこと ができなかった。(日本国)王もやはりそのために取りやめて使者を遣さなかったのか、それとも已に遣したのに 途中で阻まれたものか、なんともわからない。もしもそうでなければ、日本はもとより礼儀を知る国と号している のだから、王の君臣がどうして漫然と思慮のないことをするものであろうか。最近、已に林衍を滅ぼし、王位を復 活し、其の人民を安んじたところである。(いま)特に少中大夫・秘書監の趙良弼に命じて国信使に任命し、国書
を持って行かせることとした。

2( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
林衍のクーデタ騒動のために日本がモンゴル国に対する遣使などの友好的活動をなし得なかったのであろうかと、日本
() 側の不作為と消極的姿勢を敢えて好意的に推測して、いまや林衍を滅ぼし旧王の元宗を復位させ民情を安定させたので、
趙良弼を使者として派遣するのだと述べている。
しかし周知のように元宗の復位があろうと、林衍が死亡しようと高麗国内では三別抄の乱は南部の島嶼部で継続して
おり、趙良弼が来日したのはまさにそのような混乱緊迫した情勢の下であった。日本への軍事行動に直結する情報も
あった。『元史』日本伝にいう。
(至元)八年六月、日本通事曹介升等上言、「高麗迂路導引国使、外有捷徑、倘得便風半日可到。若使臣去、則不敢
同往、若大軍進征、則願為郷導。」帝曰、「如此則当思之。」
(至元)八年六月、日本通事の曹介升らが上言した。「高麗は遠回りして国使を案内しているが、ほかに近道があり、 もしも風向きに恵まれたら半日で到達できます。使臣が赴く時には敢えて同行しませんが、大軍が進征する時には 私が道案内致しましょう」。帝が言った。「そういうことなら考えておこう」。
さらに翌年のことになるが、『元高麗紀事』の耽羅の項にいう(後出の『元史』耽羅伝に拠り一部校訂する)。 (至元九年)十一月十五日、中書省奏、先奉旨議(眈[)耽]羅・日本事。臣等同枢密院官詢問、有自南国経由日本来者 (眈[)耽]羅人三名、画到図本称、日本太宰府等処下船之地、倶可下岸、約用軍二三万、臣等謂若先事日本、未見本
国順逆之情、恐有後詞、可先平訖(眈[)耽]羅賊寇、然後若日本国果不放趙良弼等返国、徐当再議、似無後患。又兼
() 眈羅国王曾来朝見、今叛賊逐其主、(占拠城郭[)拠其城以乱]、[挙兵討之]、義当先(平[)也]。
(至元九年)十一月十五日、中書省が奏した。「さきに皇帝のご意向を体して耽羅・日本の事を審議しました。臣ら が枢密院官と一緒に取調べたところ、南国より日本を経由して来た耽羅人三名が地図を画いて言うには、日本の大

2(
宰府等処の下船の地では、着岸するために、ほぼ軍二三万が必要だとのことです。臣らが考えるに、もし先に日本
を対象とするとなれば、未だその国の順逆の事情もわかっていないので、後々問題になるのではないか。まず耽羅
の賊寇を平定し終えてから、その後にもし日本国が果して趙良弼らを釈放して国に返さないとなれば、そこでしっ
かりと検討するのが後の憂いがないようです。さらに耽羅国王は以前にはやって来て朝見したものでしたが、現在
は叛賊が国主を放逐し、その城郭に拠って叛乱しているので、筋としては兵を挙げてこれを討伐するのを優先すべ
きと思います」。
南国とはどこか分からないが、日本を経由して帰還した耽羅人三名から聴取して、二三万の軍船が接岸上陸可能を示す 大宰府近辺の地図を描かせて事情を調査したという。元朝政府の官員は日本と耽羅(済州島)といずれを優先して軍事 行動の対象とするかを討議した。日本は今のところ順逆いずれとも態度がはっきりしないので、日本に手をつけると 後々問題になるかもしれない。ここは先ず耽羅の三別抄の反乱軍討伐を優先してはどうか、そのあとで日本国が趙良弼 らを拘束して放免せず帰国させないようであれば、そこで(日本討伐を)議論したらよいとした。
もともと『元高麗紀事』と『元史』高麗伝にはその記事に対応類似するものが多い。しかしここで『元高麗紀事』と 『元史』巻二〇八、耽羅伝(高麗伝の後に附す)との表現の違いに注目したい。元代の高麗関係の記事は本来元代の『経 世大典』中に存在したもので、『経世大典』の記事は明代の『永楽大典』中に分散して集録された。『経世大典』そのも のは失われたから、後代『永楽大典』中の高麗関係記事を収録する努力があり『元高麗紀事』が編纂されたのである (但し当該部分を収録した『永楽大典』は今日失われて見るを得ない)。上記の『元高麗紀事』の使者趙良弼の無事帰還云々
の部分が、『元史』耽羅伝ではつぎのようである。 (至元)九年、中書省臣及枢密院臣議曰、「若先有事日本、未見其(逆順[)順逆]之情。恐有後辞、可先平耽羅、然後

2( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 11
11
観日本従否、徐議其事。且耽羅国王嘗来朝覲、今叛賊逐其主、拠其城以乱、挙兵討之、義所先也。」 このように『元史』では「日本の従うや否やを観る」へと変わっている。趙良弼の日本遣使の行方が元朝からの日本に 対する軍事行動に容易に直結しうることを示唆しているとみたい。趙良弼は、日本への軍事行動計画がその実行にむけ て時間的に余裕があるとはいえない、緊迫した情勢を承知の上で来日したのであった。彼が日本に対して回答期限を短 く設定したり、日本からの遣使を性急に督促した理由はそこにあったのではないかと考えたのである。さらに言えば、
趙良弼が使節団を組織するなど工作活動をしている間はモンゴル軍が日本に向かうことはないのであった。 もう一つ緊迫した情勢の例を挙げておこう。前述の耽羅関係の議論の前、趙良弼遣使の最後のあたりである。元宗 十三年(至元九年)五月一日、大将軍の曹子一が慶尚道按撫使として赴任した。按撫使は按察使とは異なって軍政に重 点のある役職とみえるが、折しも三別抄の勢力が耽羅をはじめとして島嶼部で活動を展開し、慶尚道でも工作者の摘発
()
があった。七月に事件が起こった。たまたま日本の船舶が金州に来泊した際に、曹子一はこれと内通しているとの嫌疑
が元側に伝わるのを恐れて、密かに日本船を帰国させた。それを耳にした洪茶丘が曹子一を厳重に取調べ、元の世祖に
緊急報告を行った。事の真相は不明で冤罪の可能性もあるようだが、洪茶丘は高麗が倭と通じていると告発したのだろ
うから事件は穏やかに済みそうもなかった。洪茶丘は一旦は元にもどったりしたが、十月になって洪茶丘が曹子一を殺
()
害するという結末となった。
ii 日本の使節
さて弥四郎を含む日本の使節団の派遣は趙良弼の粘り強い努力の結果としてようやく実現したものである。山本光 朗・高銀美両氏の論考を参照しつつ関連する大体の日程を以下に記しておく。

2(
至元八年(元宗十二年、文永八年、一二七一)
十二月     趙良弼が張鐸を本国へ渡らせる。(『関東評定衆伝』等)
至元九年(元宗十三年、文永九年、一二七二)
正月十三日   趙良弼が日本の使佐十二人と合浦県界に還る。(『高麗史』)
正月十八日   趙良弼が高麗国都へ還る。張鐸に日本使人を率いて元に如ゆ かせる。高麗国王が白琚を遣わし、世
祖に賀表を上らせる。(『高麗史』)
まみゆ
二月一日    趙良弼が張鐸を遣わし、日本人と京師に至り見るを求む。(『元史』世祖紀)
二月      枢密院が日本人使節について議論。(『元史』日本伝)
二月      高麗国王が書を日本に致す。(『元史』日本伝)
三月七日    中書省に諭旨、日本使人は速かに議して還らしむ。安童が金州の戍兵について発言。(『元史』世
祖紀)
四月三日    日本使が元より国都に還る。張鐸が伴来し、徐偁・金貯の「使日本」の功により高麗での大職授
与の帝命を伝える。(『高麗史』)
四月七日    康之邵に日本使を護り国に還らしむ。(『高麗史』)
五月      張鐸が帰り来る。高麗の牒状を持ち来る。(『鎌倉年代記裏書』等)
なお『元高麗紀事』至元九年正月十日条に「(植[) ]遣使其別将白(鋸[)琚]、偕張鐸等十二人、奉表来見。」とある記 事は、正月十八日の記事と内容が重なるが、月日に誤りがあるか、あるいは張鐸が元都に到着する以前に高麗国王から
予告があったかであろう。

2( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
その派遣の次第についてはさしあたり『元史』日本伝によるしかない。同伝にいう。
(至元)九年二月、枢密院臣言、「奉使日本趙良弼遣書状官張鐸来言、『去歳九月、与日本国人弥四郎等至太宰府西
守護所、守者云、《曩為高麗所紿、屢言上国来伐、豈期皇帝好生悪殺、先遣行人下示璽書、然王京去此尚遠、願先 遣人従奉使回報。》良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見。』」帝疑其国主使之来云守護所者詐也。詔翰林承旨和礼 霍孫以問姚枢・許衡等、皆対曰、「誠如聖算。彼懼我加兵、故発此輩伺吾強弱耳。宜示之寛仁、且不宜聴其入見。」
従之。
(至元)九年二月、枢密院の臣が言った。「奉使日本の趙良弼が書状官張鐸を来させて言った。『去年九月に日本国
あざむ の人弥四郎らとともに大宰府西守護所に至ったところ、そこの役人(守者)がこう言った。《以前、高麗に紿かれ
て、お国(モンゴル国)が来襲するだろうと何度も言われていたから、皇帝が生を好み殺を悪にくむとは思いもよらな いことでした。先頃、使者を遣わして璽書を下示されましたが、(返答しようにも)王京(燕京)はここから遥かに 遠いので、さしあたり人を遣って奉使(即ち奉使日本の趙良弼)に従行してお返事させたいと存じます》。というこ とで、趙良弼が張鐸を遣わし日本の使者二十六人と共に京師に至り、皇帝にお目通りを願い出た』」。帝(世祖)は、
いつわ 国主(天皇)の使者がやって来て大宰府守護所(の使い)と云うのは詐り(ごまかし)であろうと疑った。翰林承旨
の和ハ 礼ラ 霍ハ 孫ス に詔して、姚枢・許衡らの意見を求めたところ、みなこう言った。「誠に皇帝陛下のご判断の通りです。 先方は我らが武力行使するのを危惧していますから、この連中を派遣して我が兵力の強弱を探らせているに相違あ りません。ここは寛仁の態度を示しておき、当面接見をゆるすのは見合わせるのがよろしいでしょう」。これに従
う。
この記事は本節はじめの方に引用した『元史』日本伝の至元八年九月条の末尾「帝宴労遣之。」に続く文である。そこ

11
(0
では弥四郎らの使節団の高麗経由の入京と(接見はなく)宴労したということで話は終わっていたかのようである。し かし至元九年二月条では使節団派遣の次第から接見を許さなかった内部事情を細かく説明している。どうもこの長い記 事は何か別の情報源に基づくものであり、使節団派遣の事情と世祖への謁見が回避された事情とを説明する価値ある記 録と認めた結果、本伝に収録されたと考えられる。なお使者の数を「二十六人」とするのは『元史』世祖紀と日本伝の みで、『元史』趙良弼伝(またその史料源たる墓碑史料)や『高麗史』では「十二人」とするので、使者の数は十二人と
解されている。
この記事について解説を試みたいが、まずここには趙良弼のバイアスがある程度織り込まれているだろうことに注意
しなければならない。個人の伝記史料、わけても墓碑史料などでも同様であるとはいえ、本件の場合などは趙良弼が使
命達成のために能う限りの工作活動に努めた結果である。裏付けとなる日本側の史料が欠けているので、まずは史料に
即して趙良弼の言い分を平心に受け止めることから始めたい。
すけよし () まず「守者」の言葉が見える。守者とは大宰府守護所の武藤(少弐)資能らしく、趙良弼と交わした談話の形である。
これまで高麗に欺かれて屢次、上国の来伐を言われてきたというのは、大宰府としてモンゴル国国書を受け取ったのが、
第二次・第四次といずれも高麗の使者に依ったことであり、威圧的勧誘としてさきに述べたような軍事力行使をその度
に示唆されてきたことを意味するであろう。そして遠いモンゴル国の都には使者趙良弼に従って回報したいと守護所側
から願い出たとされる。しかしここは趙良弼の描いたシナリオが色濃く反映していたと理解すべきであろう。
趙良弼にとって最善の途は日本国王からの返書を得て相応の使者とともに帰還することであっただろう。さもなけれ ば幕府の責任者か、あるいはせめて責任ある立場の官庁か官人からの返書を携えた使者が同行して燕京に赴くことで あったはずである。趙良弼と大宰府守護所が通訳を介して意見・見解を述べあい、趙良弼が提示した回答期限が迫るな

(1 モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
かでの妥協の産物が、実に変則的な使節団派遣であったと考えられる。使節団の代表者名も伝わらず、趙良弼が日本に 同行した弥四郎と大宰府守護所の関係者によって構成された十二名の日本人の集団である。真に使節団かといえば、恐 らく守護所の立場としてはそうではなく視察団というほどの扱いだったのではないだろうか。それが前記の世祖の疑念 の言葉に表れているとみたい。「帝疑其国主使之来云守護所者詐也」の句の解釈は従来とも研究者・翻訳者が苦心して いるかに見えるが、筆者が与えた訳文の背景として考えたところを説明しておきたい。燕京で世祖への拝謁を申し出た
「日本の使節」であるからには当然、日本国主が派遣した使節と受け止められる。ところがその日本人たちがみずから (我らは)守護所の使いであると言って、日本を代表する立場から逃れるかにみえるようでは先方の理解は得られない であろう。要人たちもみな世祖に賛同した。正式の朝見にならないならむしろ会うべきでない、彼らは本当は我が国の 国力や情勢を偵察に来ただけではないかとして入見を回避するのに傾いた。趙良弼が日本国王あるいは大将軍との会見 を達成できずにいるという状況が、世祖が使節団と接見するのに障害となったことも当然あるだろう。またその当時す
()
でに元朝政府には日本への軍事力行使の可能性が視野に入っていた背景もあるだろう。
趙良弼は背後に日本に対する軍事圧力が存在するのを十分心得ていたから、日本側の回答期限を短く設定し、遣使の 間に大事が起こるのを回避するよう努めた。そうした切迫した事情を背景に日本側に対して妥協を迫り、自らも妥協の 末に不本意ながらも中途半端で変則的な形態の使節団とは承知で、高麗国王の保証を付けて元朝に送り込んだのがこの 日本人使節団であったと考えられる。つぎに掲げる『高麗史』巻二七、元宗世家、元宗十三年(至元九、一二七二)正
月丁丑(十八日)条にいう如くである。
趙良弼還自日本、遣書状官張鐸、率日本使十二人如元。王遣訳語郎将白琚表賀曰、「盛化旁流、遐及日生之域、殊 方率服、悉欣天覆之私。惟彼倭人処于鰈海、宣撫使趙良弼、以年前九月、到金州境、装舟放洋而往、是年正月十三

(2
日、偕日本使佐一十二人、還到合浦県界、則此誠由聖徳之懐綏。彼則嚮皇風而慕順、一朝渉海、始修爾職而来、万
里瞻天、曷極臣一心之喜。茲馳賎介、仰賀宸庭。」
趙良弼が日本より(高麗に)還り、書状官の張鐸を遣わし、日本使十二人を率いて元に赴いた。王(元宗)は訳語
あまね はる (がいこく)おおむ ことごと 郎将の白琚を遣わし賀を表して言った。「皇帝の盛化は旁く流れ、遐かに日生の域に及び、殊方率ね服し、 悉 く
(めぐみ) よろこ ちょうかい
天覆の 私 を欣ぶ。惟だ彼の倭人は鰈海(鰈はひらめ、即ち朝鮮近海の意)に処り、宣撫使趙良弼、年前九月を以て、
金州の境に到り、舟を装し洋に放ちて往き、是の年正月十三日に、日本使佐一十二人と偕ともに還りて合浦県界に到る
むか そ は、則ち此れ誠に聖徳の懐綏に由る。彼則ち皇風に嚮いて慕順し、一朝海を渉り、始めて爾の職を修めて来り、万
み なん (ししゃ)
里天を瞻れば、曷ぞ臣が一心の喜びを極めんや。茲に賎介を馳せ、仰ぎて宸庭に賀す」。
また『高麗史』巻一〇六、金有成伝にはいう。
元宗朝、元世祖遣秘書監趙良弼、宣撫日本、令我国道達。有成選充書状、偕良弼往諭以順逆禍福、日本承命遣使朝
元。
(あんない) 元宗朝、元の世祖が秘書監趙良弼を遣わし、日本を宣撫するに、我国に道達させた。金有成は選ばれて書状(官) に充てられ、良弼と偕に往き順逆禍福を諭したところ、日本は命を承けて使を遣わして元に朝した。
このように、日本の使節団が趙良弼と高麗によって用意された路線の上を歩んでいることを伝えている。日本の守護所
では、前年、対馬の塔二郎・弥二郎が世祖に接見され高麗の使者ともども世祖の歓待を受けたことが実績・経験として
想起され、そこに期待をかけていたと考えられる。使節団の派遣は急場しのぎの措置であったかもしれないが、趙良弼、
大宰府守護所、高麗政府三者の裏面での合意だったのではないだろうか。ともあれシナリオを書いたのは趙良弼であっ
たことは間違いあるまい。

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
趙良弼は張鐸をよく使った。張鐸をまず高麗に送って高麗国王に交渉経過を説明して日本の使節団到来の予定を告げ 準備を促した。高麗国王に世祖宛の書簡(表文)を用意させ、高麗政府として責任をもって使節団を元都に送り届ける 態勢を整えさせた。高麗としての代表使節が白琚である。やがて趙良弼が日本人とともに高麗の都開京に到着する。彼 は元朝政府に書簡を認めて張鐸に託し、張鐸に全体を統括させて燕京に送り出した。趙良弼自身が同行しなかったのは 自ら使命を果たす途上と認識していたからであろう。出発を見届けると、趙良弼は高麗にあって使節団の帰還を待った。 かの郝経などとは異なり、拘束などされずに行動の自由を有していることを身を以て示し、自身の消息をも伝えたの
だった。
使節団は燕京に一ヶ月余り滞在した。恐らく趙良弼の書簡による報告、書状官張鐸が伝えた趙良弼の意見などに基づ
いて検討するのに時間を要したのであろう。世祖は日本からの使節団に新たな展望を見通せず、これ以上の接遇を不要
と最終的に判断した。また趙良弼はもと自分と同行して金州に来たりそこにそのまま屯駐していた軍兵を日本人に見せ
たくなかったから、その一時的な移動を提案していた。元軍が侵攻の準備をしているとの疑惑を日本側において妄りに
アントン 生じさせないためであった。しかしその提案は政府中枢の右丞相安童によって耽羅対策のためであるから問題はないと
()
して受け容れられなかった。
太田彌一郎氏と山本光朗氏は日本僧瓊林が趙良弼の日本での活動を妨げた時期を使節団が帰国したあとの趙良弼の二
()
度目の滞在期間中であることを推定している。『元朝名臣事略』巻一一、枢密趙文正公にいう。
其国主擬奉表議和、会宋人使僧曰瓊林者来渝平、以故和事不成。
たまた けいりん い ゆへい 其の国主は表を奉じて和を議そうと擬したが、会ま宋人の使僧の瓊林と曰う者が来り渝平したので、その故に和
事は成らなかった。

1(
11
((
ここにいう国主とは天皇を指すはずであるが、日本には関係史料の存在は一切知られていない。やはりここは趙良弼個
人の立場を守らざるを得ない史料の性格を考慮すべきところと思う。前回と比べて短くはない趙良弼の二度目の滞在期
間は日本に対する最後のひと押しの機会であった。和平の議論もきっとあったであろう。交渉の過程で趙良弼が有利に
感じた場面もあったかもしれない。ただ史料の性格からして、太田氏が南宋の「密使」といわれるところも果たして額
面通りに受け止めてよいものか留保したくなる。国家存亡の危機に直面している南宋政府がひとりの日本僧にそれほど
の大事を託すのか、南宋に親近感を寄せる禅僧の善意に発する熱した議論ではなかったのかとも思えるのである。
また山本氏は「渝平」を「南宋との間に国交を回復させる」と解釈しているが、これも語義について考えてみる必要
があろう。「渝平」とは典故のある語で、『春秋左氏伝』の経にいう。
(隠公)六年、春、鄭人来渝平。
その注に「和而不盟曰平。渝羊朱反。変也。」とあり、「和すれども盟ちかはざるを平といふ」と読んできたようである。さ
あらた やは () らに左氏伝には「更成」と見えて、渝平とは「更め成らぐなり」という。つまり「和」と「平」とは異なり、平は
「盟」を伴う真の和平ではないという。この場合、南宋との関係には「平」と言い、元との関係には「和」と言ってい ると思える。そして真意は瓊林の介在したことが日本と元朝との真の和平(「奉表遣使」)を実現する妨げになったと言 いたいのだろう。それは同時に趙良弼が理想とした交渉の着地点に到達できなかった言い訳になっているのである。
結局、趙良弼が日本に来て活動した成果として見るべきものは表面的には明らかでない。使節団が世祖に接見されて
いれば、日本国主との会見を実現できただろうにと趙良弼は考えたであろう。『経世大典』における趙良弼の日本との
() 交渉への評価をみても、件の使節団への言及はなく、日本が断然として不服従(旅拒)ではなかったとするに止まる。
しかし彼が当初から日本と本格的に交渉するつもりであったことは確かである。出発に際して彼は日本国王と会見する

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
11
11
11
11
    ときにどのような儀礼によるべきか決めてほしいと乞うた。遣使の準備の一環であるに違いないが、廷議では日本と
()
の上下の分は未確定であり、儀礼の決めようがないということで曖昧なままであった。彼の交渉人らしい周到で綿密な
ところが国書の正本を大宰府守護所に決して渡そうとしなかった態度にもつながったとみられる。彼は交渉人として
精一杯の努力を傾注した。帰国して至元十年五月に世祖から「汝は君命を辱めなかった」と言われたのは、彼にとって
()
十分なねぎらいであっただろう。
なん ぽ じょうみん
日本側の通訳者としては南浦紹明(大応国師)が知られている。彼は文永七年(一二七〇)秋に筑前の興徳寺に入り、
同九年十二月二十五日に博多の崇福寺に住持した。禅僧との間にはやがて深い人間的なつながりから相互理解の機微が
()
芽生えたことも考えられる。また大応の「収得北番、東西自安」の句は緊張から解放されて修行の日常にもどった安堵
()
の感情がはしなくも現れたとみえる。趙良弼が帰国後に世祖から日本遠征について諮問を受けたとき、日本の社会状態
() や農業生産の劣悪などを挙げ、舟師渡海の困難を冒してまで遠征するメリットがないと否定的な見解で応えている。趙
良弼みずから日本の実情を観察し日本人と交流した末に、元朝による日本遠征無用の結論を体得したのであろう。
iii 元朝の日本使節団に対する評価
世祖は日本からの使節団を接見せずに還らせた。それなら一顧の価値もなしとして、この遣使らしきものは意味のな いものに終わったかというと、実はそうでもなかった。元朝側でこの使節団に対してある意味で評価ともいうべきもの
があった。『元史』日本伝にいう。
(至元)十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕・右丞范文虎及忻都・洪茶丘等率十万人征日本。二月、諸将陛辞、 帝勅曰、「a始因彼国使来、b故朝廷亦遣使往、c彼遂留我使不還、d故使卿輩為此行。......」 (原文に傍線・記号

11
1(
11
11
11
11
((
を付す)
アラガン ヒンドゥ
(至元)十八年正月、日本行省右丞相阿剌罕・右丞范文虎及び忻都・洪茶丘らに命じ、十万人を率いて日本を征討
させることとした。二月、(日本遠征の)諸将が上殿して皇帝に別れの挨拶をした。帝は勅して言った。「始めにむ
こうの国の使者が来たことに因って、それ故に朝廷も亦た使者を遣わして往ゆ かしめたのだったが、むこうはそのま
ま我が使者を留めて還さなかった。だから卿けいらに此の軍事行動をさせるのだ。......」
() 至元十八年(忠烈王七、弘安四、一二八一)の初めといえば元朝の第二次日本遠征(弘安の役)の直前である。ただ総司
アタハイ () 令官の阿剌罕は遠征直前に病に罹りその地位を阿塔海と交代し、ほどなく亡くなった。日本からの遣使の「事実」に言
及し、戦役を挙行するに至った理由を事態の時系列的推移とともに説明している。 aはまさに本稿で述べた至元九年(一二七二)二月、元の使者趙良弼の工作により弥四郎ら複数名の日本人が燕京に
やって来たことを指している。bはaの日本側の動きに対応して企図された元朝の日本への遣使であり、それは至元
() 十二年(一二七五)二月の第六次遣使の杜世忠・何文著の派遣としか考えられない。cでは日本側がその杜世忠・何文
著ら使者を留置したまま還していないと述べる。使者を拘留して釈放しないといえばちょうどこの頃に南宋に拘留され
ていた郝経と同じであるが、しかし周知のように、鎌倉幕府は使者一行五名を鎌倉近郊の龍ノ口で斬刑に処した。とこ
() ろが使者刑死の情報はちょうど一年前の至元十七年(一二八〇)二月に高麗経由で世祖のもとに届いていた。杜世忠ら
使者を運んだ四人の船乗りが日本から逃れ帰って高麗政府に使者が殺害されたことを報告し、高麗は船乗りを証人とし
() て元都に赴いてそれを報告したのだった。征東軍の忻都と洪茶丘は使者殺害の報を聞くと直ちに遠征討伐を請うたが、
御前会議では性急な遠征軍派遣は当面抑制された。未確認情報としたために使者不返還あるいは消息不明としたのかは
() 定かでない。かくてdの至元十八年二月における「陛辞」の局面となる。この世祖の言葉は「a(日本)→b(故に元

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
11
    朝)→c(日本)→d(故に元朝)」という形で、簡明に主語を入れ替えて、日本側に討伐を受けるに足る責任があるこ とを遠征の諸将に向かってわかりやすく説明する。aは第五次遣使の趙良弼の工作の成果とみられるのだから、ほぼ十 年間にわたる事態の推移の必然的帰結として第二次遠征の挙行に至ったというのが元朝側の論理展開なのであった。
筆者がとくに注目したいのは弥四郎らの燕京訪問が明らかに日本からの遣使と認識されている点である。世祖との会
見は実現しなかったものの、使節団の訪問があったればこそ、それを承けて元朝から杜世忠・何文著を派遣したとして
いる。実は同様の論の運びはこれに止まらず、少し後の至元二十年の第八次遣使にも現れるのである。筆者がさきに取
()
り上げたことのある『善隣国宝記』の「接待庵記」にいう。
又記宣諭日本国詔文曰、「上天眷命皇帝聖旨。諭日本国王。向者、a彼先遣使入覲、b朕亦命使相報、已有定言、 想置於汝心而不(志[)忘]也。c頃因信使執而不返、d我是以有舟師進問之役。古者兵交使在其間、彼輒不交一語而 固拒王師。據彼已嘗抗敵、於理不宜遣使。......」 (原文に傍線・記号を付す) 又日本国に宣諭するの詔文を記して以下のようにある。「上天眷命の皇帝聖旨。日本国王に諭す。さきに先方がま ず使者を遣わして入朝して朕に拝謁したので、朕も使者に命じてこれに返報したのだが、そこに確たる言葉があっ たのは、汝の心に留めて忘れないことと思う。近時、国信使が捕えられたまま返されなかったために、我が方は海 軍でもって問責する戦役を興したのだ。古来、軍隊同士が交戦するときには使者が介在するというが、先方はひと 言も交わさないまま王の軍隊を断固拒絶した。先方が武力抵抗したのだから、こちらとしては使者を遣さないのが
筋である。......」
これは如智が日本に遣使するに際しもたらすはずであった国書の一節である。aからdに至る、至元九年から十八年に
至る時系列の論理が多少とも語を換え、また補足もしながら繰り返されている。前述のように弥四郎らの使節団は「入

11
11
((
覲」することはなかった。従って訳文を与えるならば「朕に拝謁しようとしたので」となるが、ここはそうではなく、
如智に詔書を与えるにあたり、至元十八年の故事を引用するのに厳密を期さなかっただけであろう。
またbに関して「已有定言、想置於汝心而不忘也。」とあるところはやはり注意すべきであろう。杜世忠らの第六次 遣使の際の元朝国書は失われていて確認しようがないのだが、そこに日本側が心に留めて忘れないような「定言」が あっただろうとしている。「定言」には約束の意味もあるが、ここは拙稿で考察したような「確たる言葉」として日本
()
に対して明確な意思表示が行われたものと考えられる。もしこの翻訳に誤りがないならば、杜世忠らが処刑された原因
は、幕府が国書の内容、すなわち「定言」に正面から向き合い反応した結果とも考えられる。そしてこの元朝の第六次
遣使の行く末については、第二次遠征(弘安の役)後に想定されていた対話交渉の場面の主要な議題になるはずであっ
()
た。
むすび
以上、主として遣使を通じてモンゴル襲来の前後の外交交渉について整理し観察してきた。趙良弼が関わった使節
の始末などを取り上げると、この時代においていかにモンゴル・元朝を基軸にして情勢が動いてきたかを実感もする。
日本では異国襲来という大事変によってかき消されてしまった史実や史料もあるだろう。大筋の史料は外すことなく、
小さな絡み合った史料を解きほぐすような作業をしてゆくよりないだろう。

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使 ((((((21
(

( )拙稿「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(『東方学報』第九〇冊、二〇一五、所収)参照。
( )補訂したのは先に「第六次」とした趙良弼の再度の来日である。趙良弼は大宰府から一旦高麗の都にもどったが、再 度の来日の際には国書等の持参を伴わないとみられるので、趙良弼の一連の外交活動と理解した方がよいと考えたため
である。
( )高橋典幸「モンゴル襲来をめぐる外交交渉」(高橋典幸編『戦争と平和』二〇一四、竹林舎、所収)
( )拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要』史学編第一六号、二〇一
七、所収)参照。
( )張東翼「一二六九年「大蒙古国」中書省の牒と日本側の対応」(『史学雑誌』第一一四編第八号、二〇〇五、所収、『モ
ンゴル帝国期の北東アジア』二〇一六、に再録)参照。
( )拙稿「モンゴル国国書の周辺」(『史窓』第六四号、二〇〇七、所収)参照。
( )「諭意」とは内意を告げることであり、『漢書』巻六四、厳助伝にいくつか用例がある。
    助乃斬一司馬、諭意指、(師古曰、以天子意指暁告之。)遂発兵浮海救東甌。......乃令厳助諭意、風指于南越。(師古
曰、風読曰諷、以天子意指諷告也。)......助還、又諭 南曰、「......嘉王之意、靡有所終、使中大夫助諭朕意、告王 越事。」助諭意曰、「今者大王以発屯臨越事上書、陛下故遣臣助告王其事。......」
  「意指」は「意旨」と同義。なお「不諭其意」の用例は諸書に数々見える。
( )大蒙古国国書(中書省牒)(『異国出契』所収)。拙稿「モンゴル国国書の周辺」(注( )参照。なお本件について、
拙稿「元初における日本人の燕京往還」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要』史学編第一九号、二〇二〇)でも

(0 1(1( 1( 1( 1( 1(12 1110 (
1
(
(
言及した。
( )張東翼「一二六九年「大蒙古国」中書省牒と日本側の対応」(注( )参照。
( )『元高麗紀事』至元五年十一月丁卯条参照。拙稿「元初における日本人の燕京往還」(注( )参照。
( )大蒙古国国書にいう。
    皇帝寛仁好生、以天下為度、凡諸国内附者、義雖君臣、歓若父子、初不以遠近小大為間。至于高麗、臣属以来、唯 歳致朝聘、官受方物、而其国官府土民、安堵如故、及其来朝、皇帝所以眷遇(樹[)撫]慰者、恩至渥也。
( )池内宏『元寇の新研究』(一九三一)参照。
( )拙稿「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(注( )参照。そこでは第八・九・十次遣使につい
て国書を中心として基礎的考察を加え、三次の遣使を「普陀山僧の日本遣使」として扱った。
( )西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』(一九九九、第二章(旧題「元朝国信使寧一山考」(『日本歴史』五〇九号、一九九 〇)参照。なお柯劭忞『新元史』(一九一九)巻一七七、王積翁伝の「命普陀僧副之」は柯氏の表現であり、辞令の交
付を意味するとは限らないと思う。
( )近い例では、秦野裕介「クビライ・カアンと後嵯峨院政の外交交渉」(『立命館文学』六二四号、二〇一二)、榎本渉
「テムルの日本招諭と一山一寧・燕公楠」(『史学研究』三〇〇号、二〇一八)参照。両氏とも招諭使とされる。
( )国信使については、古松崇志「契丹・宋間の国信使と儀礼」(『東洋史研究』七三巻二号、二〇一四)、毛利英介「国信
使の成立について」(『アジア史学論集』第九号、二〇一五)参照。
( )『元高麗紀事』によればこの記事を「九月十一日」とし、また「日本国」とする。
( )『鎌倉年代記裏書』建治元年九月七日条に杜世忠は中(須)[順]大夫・礼部侍郎と、何文(着)[著]は奉訓大夫・兵部郎中

(1 モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
21 20 1( (
とみえる。中順大夫は文散官正四品、奉訓大夫は従五品である。
( )杜世忠らの処刑情報の元朝政府への伝達の経緯については、拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(注
( )参照。
( )『金史』の例の一部を以下に掲げる。
   ・詔河南路行総管府節鎮以上官、充宣差捕盗使、以防禦刺史以上長貳官、及世襲猛安之才武者為之副、又命濮王府尉
完顏毛良虎為宣差提控、以巡督之。(巻一五、宣宗紀興定二年四月乙巳条)
   ・(興定)二年、改山東東路転運使、権知益都府事、行六部尚書宣差便宜招撫使。(巻一〇二、田琢伝)    ・(孟奎)遷同知西京路転運使事。置行枢密院于鎮寧、充宣差規措所官給軍用。(巻一〇四、孟奎伝)    ・(貞祐四年)四月、上言、「河北瀕河州県、率距一舎為一寨、籍居民為兵、数寨置総領官一人、並以宣差従宜為名。
其人大抵皆閑官、義軍之長・偏裨之属尤多無頼輩、徴逐宴飲取給于下、日以為常。(巻一〇九、陳規伝)    ・仙怒曰、「今日宣差来起軍、明日宣差来起軍、因此軍卒戦亡殆尽矣。自今選甚人来亦不聴、且教児郎輩山中休息。」
(巻一一八、武仙伝)
( )『元史』に見える諸例を以下に掲げる。
   ・以阿同葛等充宣差勘事官、括中州戸、得戸七十三万余。(巻二、太宗紀五年八月条)    ・太宗準奏、就令梁泰佩元降金牌、充宣差規措三白渠使、郭時中副之。(巻六五、河渠志、三白渠)    ・中統元年、置宣差提点太医院事、給銀印。(巻八八、百官志、太医院)
   ・中統四年、立御酒庫、設金符宣差。(巻八七、百官志、大都尚醞局)    ・(至元十八年)十二月、差奥魯赤・劉都水及精算数者一人、給宣差印、往済州、定開河夫役。(巻六五、河渠志、済

2(2( 2( 2( 2( 2( 22
1(
1
1(
1
(2
州河)
( )『草木子』巻三下にいう。
    元之宣敕皆用紙、一品至五品爲宣、色以白、六品至九品爲敕、色以赤。雖異乎古之 勅用織綾、亦甚簡古而費約、
可尚也。
( )前引の『元史』成宗紀大徳三年三月癸巳条の記事及び『鄰交徴書』二編巻一「与一山牒」参照。一山一寧の任命に関 しては、西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』(一九九九、第二章(旧題「元朝国信使寧一山考」(『日本歴史』五〇九 号、一九九〇)、榎本渉「テムルの日本招諭と一山一寧・燕公楠」(『史学研究』三〇〇号、二〇一八)また拙稿「第二
次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(注( )参照。
( )『元史』列伝の王積翁の事績を記す材料となったのは王積翁の祀堂碑(故参知政事行中書省事・国信使・贈栄祿大夫・ 平章政事・上柱国・追封閩国公・諡忠愍王公祀堂碑)である。拙稿「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書につ
いて」(注( )参照。
( )舩田善之「日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の展開──冒頭定型句の過渡期的表現を中心に──」
(『史淵』一四六号、二〇〇九)参照。
( )注( )に同じ。因みに周知のごとく、初度の遣隋使の派遣に伴う国書には「日出処天子致書日没処天子無恙」(『隋
書』巻八一、東夷伝倭国)とあった。
( )注( )に同じ。なお一山一寧の遣使に関して榎本渉「テムルの日本招諭と一山一寧・燕公楠」(注(

*2: モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(2 (1(02(
( )『桐江続集』巻二四、「送王宣慰中斎上温州」の詩の題下に王宣慰について注し「剛中、兄積翁、父伯大。先君同甲戌
袁榜。」とある。
( )『元史』世祖紀、至元十二年十一月庚寅条にいう。
    伯顔遣降人游介実、奉璽書副本使于宋、仍以書諭宋大臣。
 『 元史』巻一二七、伯顔伝には同文を載せるが、「璽書副本」の部分は「詔書副本」とある。
( )『宋史』巻四七、二王紀にいう。
    (景炎元年八月)丙子、聞大兵至、遂解帰。以王積翁為福建提刑招捕使・知南剣州、備禦上三郡、黄 為同提刑招捕
使・知漳州、備禦下三郡。
  王積翁と王剛中の宋末以来の動向については、拙稿「元初における海事問題と海運体制」(『東アジア海洋域圏の史的研
究』二〇〇三、所収)参照。
( )『元史』巻一二九、唆都伝にいう。
    (至元十四年)、宋丞相文天祥・南剣州都督張清、合兵将襲建寧、唆都夜設伏敗之。転戦至南剣、敗張清奪其城。至
福州、王積翁以城降。
 『 宋史』巻四七、二王紀にいう。
    (景炎元年十一月)、阿剌罕兵至建寧府、執守臣趙崇鐖、知邵武軍趙時賞・知南剣州王積翁皆棄城去。乙巳、昰入海。
癸丑、大軍至福安府、知府王剛中以城降。
 『 宋史紀事本末』巻一〇八、「二王之立」にいう。     (景炎元年十一月)、王積翁叛降元。先是、積翁棄南剣州、走行都、遣人納款於元。至是、元軍侵福安、積翁為内応、

((
(( (( (( ((
2(
((
遂与王剛中同降。
( )『元史』巻九、世祖紀にいう。
    (至元十四年三月癸丑)、行中書省承制、以閩浙温・処・台・福・泉・汀・漳・剣・建寧・邵武・興化等郡降官、各
治其郡。
( )『宋史』巻四五一、陳文龍伝にいう。
    已而降将王世強復導大軍入広、建寧・泉・福皆降。知福州王剛中遣使徇興化、文龍斬之而縦其副以還、使持書責世
強・剛中負国。
( )『元史』巻一三一、忙兀台伝にいう。
    (至元)十八年、転右丞。時宣慰使王剛中以土人饒貲、頗擅作威福、忙兀台慮其有変、奏移之他道。
( )元初の福建地方の少数民族を含む叛乱については拙著『元代江南政治社会史研究』第三部第一章「元初の畲族の叛乱 について」参照。また忙兀台については拙稿「劉宣の第三次日本遠征反対論」(注( )で劉宣との確執に関連して述
べている。
( )池内宏『元寇の新研究』(一九三一)第六章「趙良弼の日本奉使と高麗に於ける元軍の屯田」参照。日本人使節につい
て氏の所説を摘記すれば以下のようである。
    想ふに良弼は全然使命を空しくして還るに忍びず、否な、後に述ぶる如く、別に思ふところがあって、さきに伴れ
て来た弥四郎等......を本国の朝廷に送らうと思ひ、我が官憲に計って其の同意を得たのであって、それを稍々誇張 して伝へたものが即ち趙良弼伝に所謂「日本知不可屈、遣使介十二人入覲」であらう。......たゞ高麗は弥四郎等 十二人を「日本使佐」と認め、堂々たる賀表をさへ元に上った。......高麗は弥四郎等が何者であらうとも、之を正

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(( (( (2 (1 (0 (( ((
(
(
しき使者と認めて世祖にさう思はせることを自国の利益であると考へ、ことさらかういふ処置を執ったのであらう。
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝の「日本知不可屈、遣使介十二人入覲」の文は、つぎに掲げる趙良弼の墓碑(『元朝名臣
事略』巻一一、枢密趙文正公)の文に基づくと考えられる。
    ......如是者三日、彼詐窮、変索公、呼守護所大加詬責、「彼来請受国書。」公言、「国書当俟見国主日致達。」数欲脅
取、公以辞拒之、嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈、日本遂遣使介十二人入覲、上慰諭遣還。  「 彼不能屈」とは「先方は公(趙良弼)を屈服させることができず」という意味であろうから、交渉過程における趙良弼
の信念を曲げない強い態度が結果として日本の十二人の使節団派遣に結実したと言うのであろう。
( )山本光朗「元使趙良弼について」(『史流』第四〇号、二〇〇一)、高銀美「大宰府守護所と外交──大宰府守護所牒を
手がかりに──」(『古文書研究』第三号、二〇一二)参照。
( )拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(注( )、同「元初における日本人の燕京往還」(注(

*3: (( (( 1
2
((
「必見汝国王、始授之。」越数日、復来求書、且曰、「我国自太宰府以東、上古使臣、未有至者。今大朝遣使至此、而 不以国書見授、何以示信。」良弼曰、「隋文帝遣裴清来、王郊迎成礼、唐太宗・高宗時、遣使皆得見王、王何独不見 大朝使臣乎。」復索書不已、詰難往復数四、至以兵脅良弼。良弼終不与、但頗録本示之。後又声言、大将軍以兵十万
來求書。良弼曰、「不見汝国王、寧持我首去、書不可得也。」
   また『元朝名臣事略』巻一一、枢密趙文正公にいう。
    前使過高麗、名為遣人護送、取道対馬・一岐等島、実漏密謀、益懼其日本既通、有以軋己也。公曲為防遏、使不得
逞其計、自絶景島登舟、徑趍太宰府。既至、宋人与高麗・耼羅共沮撓其事、留公太宰府、専人守護、第遣人往返議 事、数以兵威相恐、或中夜排垣破戸、兵刃交挙、或火其鄰舎、喧呶叫号、夜至十余発、公投牀大鼾、恬若不聞。如 是者三日、彼詐窮、変索公、呼守護所大加詬責、「彼来請受国書。」公言、「国書当俟見国主日致達。」数欲脅取、公
以辞拒之、嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。
( )『鄰交徴書』初編巻一「書」(趙良弼)、及び『鎌倉遺文』一四(一〇八八四「蒙古使趙良弼書状」)。この文書を読んだ ものとしては、西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』(一九九九)(補論 「モンゴル襲来前夜の日元交渉の一面」注
( )、朱雀信城「至元八年九月二十五日付趙良弼書状について」(『年報太宰府学』第二号、二〇〇八)がある。本稿末
尾「余論」参照。
( )『元史』巻七、世祖紀至元八年十一月乙亥(十五日)条にいう。
    建国号曰大元。詔曰、「......我太祖聖武皇帝、握乾符而起朔土、以神武而膺帝図、......可建国号曰大元、蓋取易経
「乾元」之義。......」
( )『吉続記』文永八年十月廿四日条にいう。

(( モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(1 (0 ((((
    今度牒状、朝使直可持参帝都、不然者不可放手之由申之、蛮夷者参帝闕事無先例、牒状之趣可承之由、少卿問答、 就之、彼朝使書写牒状、与少卿、彼状自関東進之、其趣、度々雖有牒状、無返牒、此上以来十一月可為期、猶為無
音者、可艤兵船云々、可有返牒云々、先度長成卿草少々引直可被遣云々、
( )『元史』巻七、世祖紀至元七年十二月丙申朔条にいう。
    命陝西等路宣撫使趙良弼為秘書監、充国信使、使日本。
( )『高麗史』巻二七、元宗世家、元宗十二年正月己卯条にいう。
    蒙古遣日本国信使秘書監趙良弼及忽林赤・王国昌・洪茶丘等四十人来、詔曰、「朕惟日本自昔通好中国、又与卿国地
相密邇、故嘗詔卿道達去使、講信修睦、為渠疆吏所梗、不獲明諭朕意。後以林衍之故、不暇及今。既輯爾家、復遣 趙良弼充国信使、期于必達、仍以忽林赤・王国昌・洪茶丘将兵送抵海上、比国信使還、姑令金州等処屯(住[)駐]、
所需粮餉、卿専委官赴彼逐近供給、鳩集船艦、待於金州、無致稽緩匱乏。」
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝にいう。
    至元七年、以良弼為経略使、領高麗屯田。良弼言屯田不便、固辞、遂以良弼奉使日本。先是、至元初、数遣使通日
本、卒不得要領、於是良弼請行、帝憫其老、不許、良弼固請、乃授秘書監以行。良弼奏、「臣父兄四人、死事于金、
乞命翰林臣文其碑、臣雖死絶域、無憾矣。」帝従其請。給兵三千以従、良弼辞、独与書状官二十四人倶。
( )『高麗史』巻二七、元宗世家、元宗十二年正月壬午条にいう。
    趙良弼請与倖臣康允紹偕行、王不得已従之。
 『 高麗史』巻一二三、康允紹(嬖幸)伝にいう。     康允紹、本新安公之家奴、解蒙古語、以姦黠得幸於元宗、累使于元、以功許通宦路、累遷将軍、林衍之誅金俊也、

(( (( (( (2
(
((
首与其謀、称一等功臣、加大将軍。衍逼王遷于龍巌宮、王問将軍李汾成曰、「允紹何如。」対曰、「允紹已貳於王矣。」 及王復位朝于元、衍以允紹為己腹心使扈駕、及還、又加上将軍。然以前事常不自安。及世子率衣冠子弟入侍于元、
允紹不在選中、不告于王、遂行開剃而還、自比客使見王不拝、王怒不能制、有司莫敢詰。
( )林衍が元宗王 を廃して安慶公淐を即位させたのが元宗十年(至元六年)六月乙未(二十一日)、元宗王 が復位した のが同年十一月甲子(二十三日)、林衍が憂懣のうちに死亡したのが元宗十一年二月乙未(二十五日)であった。林衍の
クーデタについては、拙稿「元初における日本人の燕京往還」(注( )でも言及した。
( )引用史料の末尾あたりの校訂は『元史』耽羅伝による。なお眈羅国王とは耽羅(済州島)の伝統的土俗的な島主で
「星主」と称されたものである。
( )『高麗史』巻二七、元宗世家、元宗十三年五月戊午朔条にいう。
    以大将軍曹子一為慶尚道按撫、代朱悦。
  同五月乙丑条にいう。
    慶尚道按察使執送耽羅賊牒二人。
( )『高麗史』巻二七、元宗世家、元宗十三年七月甲子条にいう。     倭船到金州、慶尚道按撫使曹子一恐交通事覚、獲譴于元、密令還国。洪茶丘聞之、厳鞫子一、馳聞于帝。
  同十月己亥条にいう。
    洪茶丘殺曹子一。
 『 高麗史』巻一三〇、洪茶丘伝(叛逆)にいう。     明年、倭船泊金州、慶尚道按撫使曹子一恐元責交通、密令還去。茶丘聞之、厳鞫子一、鍛錬以奏曰、「高麗与倭相

(( ((
モンゴル・元朝の対日遣使と日本の対元遣使
(2 (1 (0
(( ((
((
((
(
((
(
2(
((
((
通。」王遣張暐請釈子一。囚一日、茶丘遽還元、人莫知其故、王慰諭之。
( )『鄰交徴書』初編巻一所収の趙良弼書状の注に「小弐殿、筑後守資能也。祝髪号覚恵」とある。また朱雀信城「至元八
年九月二十五日付趙良弼書状について」(注( )の注( )参照。
いつ
( )補足説明すれば、筆者はこの文を「疑其〈......〉者詐也。」の構造と理解し、詐わりの対象が〈......〉であると考えた。
拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(注( )も同じ。高銀美氏は「皇帝は、日本国主の使者が来て守護所
と云うのは偽りであると疑い、......」と翻訳し(「大宰府守護所と外交― 大宰府守護所牒を手がかりに― 」(注
( )、一四頁)、筆者と内容的には同じ趣旨とみえる。なおこの時点ではモンゴル国は大元王朝と国号を変改していた。
( )『元史』巻七、世祖紀至元九年三月乙丑(七日)条にいう。
    諭旨中書省、日本使人、速議遣還。安童言、「良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼。臣等以為金州戍兵、彼国所知、
若復移戍、恐非所宜。但開諭来使、此戍乃為耽羅暫設、爾等不須疑畏也。」帝称善。
( )太田彌一郎「石刻史料「賛皇復県記」にみえる南宋密使瓊林について─元使趙良弼との邂逅─」(『東北大学東洋史
集』第六輯、一九九五)、山本光朗「元使趙良弼について」(注 )参照。
( )野間文史『春秋左伝正義訳注』第一冊、二〇一七、参照。
( )拙稿「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」(注( )参照。
( )『元史』日本伝にいう。
    (至 元(六)[七]年) 十 二 月、 又 命 秘 書 監 趙 良 弼 往 使。 書 曰、「......」 良 弼 将 往、 乞 定 与 其 王 相 見 之 儀。 廷 議 与 其
国上下之分未定、無礼数可言。帝従之。
( )『元史』巻一五九、趙良弼伝にいう。

(0 (( (( (( ((
(1
((
((
    (至元)十年五月、良弼至自日本、入見、帝詢知其故、曰、「卿可謂不辱君命矣。」
( )一例を挙げれば、『大応語録』の偈頌にいう。
    外国高人来日本 相逢談笑露真機 殊方異域無差路 目撃道存更有
  荒木見悟『大応』(日本の禅語録三)(一九七八)、西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』(一九九九、(注(