モンゴル帝国の飲食文化の高麗流入と変化
趙 阮(漢陽大学)
[原著:韓国語、翻訳:金範洙]
1. 序論
13世紀におけるモンゴル帝国の建設以来、大規模な人的移動が発生し、それによる各地域の
文化間交流が行われた。文化的接触や刺激、また変容の現象は、モンゴル帝国期における物質
文化の領域の中でも飲食文化に色濃く反映されている。12世紀から13世紀のモンゴル草原では、
肉類や乳製品を主食として摂取していたモンゴルの支配領域が定住地域へと拡大し、それに伴
って遊牧民の穀類摂取が増えるようになった。モンゴルが中国全域を征服して以来、中国各地
で生産された野菜や果物もまたモンゴル支配層の食卓に上がるようになった。モンゴルがユー
ラシア大陸を征服したあと、各地域の飲食文化がモンゴル大カアンに進上されたことで、14世
紀モンゴル大カアンの宮廷では飲食文化の多様化や融合現象が現れるようになった。飲食文化
の変化は、単に帝国の中心部に限定して出現したのではなく、漸進的な過程を経て帝国の周辺
地域にも出現した。
モンゴル支配は、モンゴル人の食生活に様々な変化をもたらしただけでなく、漢人の飲食文
化にも少なからず影響を与えた。モンゴル西域人の移住により、モンゴル、回回の飲食文化が
伝わった。漢人もモンゴル酒であるアイラグ、馬乳酒などを摂取し、またムスリム飲食文化の
影響を受けた。この時期にはまた、「一日三餐」の飲食文化も普遍的となった。1
このような現
象は、中国地域に止まらず、韓半島(訳注:朝鮮半島)地域の飲食文化にも現れた。韓半島
は、高麗後期になるとモンゴルの影響で肉類の摂取が盛んとなる。2
その影響の相関関係については、早い時期から民俗学界から注目されている。モンゴルの肉
汁であるショルや韓国のタン(湯)文化、肉のスープにご飯や麺を入れて作る方式、ユピョの
ような干し肉を作る方式、モンゴルのゲデスや韓国のスンデ(訳注:豚腸詰。血を固めたソン
ジや餅米、春雨などを入れる)を比較して両国の肉食文化の類似性に注目した研究がある。3

方で、モンゴルが百年余り耽羅を軍事的要衝地にしたことで、済州の言語や習俗、飲食文化に
は、モンゴルの影響が残っている。その中で済州地域に残るモンゴル飲食文化の影響に注目し
た研究によると、130年間のモンゴル軍の駐屯により、モンゴル式スンデであるケデス、ユック
ポ(干し肉)、焼酎、タンの文化が耽羅に伝わったとする。済州の郷土料理であるモムクック
は、モンゴルの飲食文化が済州の環境に適応して郷土化した飲食文化の事例とされる。モムク
ックは、豚肉を茹でたスープ(タン・湯)に海藻類のホンダワラを入れて作ったもので、モン
ゴル式タンスープが済州の風土に合う形で変容したものと考えられる。4

1史衛民『元代社會生活史』(北京、中國社會科學出版社、2005)p105-106。
2金尙寶『韓国の飲食生活文化史』(パジュ、クァンムンカク、1997)p 331-332。最近、国内においても、モン
ゴル飲食文化の韓半島流入と影響に関する研究が進められている。
3
キムチョンホ「韓蒙間の肉食文化の比較」『モンゴル学』4、1996。
4李ジュンス「13 世紀における耽羅元帝国の飲食文化変動分析」『亜細亜研究』59-1、2016、p143-179。
2
モンゴルは、帝国の建設以降、ある地域の文化を他の地域へ流通させる、文化の媒介者とし
ての役割を果たした。このような様相は飲食文化にも現れ、モンゴル本土の飲食文化だけでな
く、モンゴルが征服した地域の飲食文化がモンゴル征服期やそれ以降の時期に他地域で現れる
こともあった。高麗末の中国において発展した蒸留法は、モンゴルを通じて韓半島に伝わった。
モンゴルは、征服地域の蒸留器術を活用して馬乳飲料蒸留酒化し、それをアラキと名付けた
が、このような蒸留文化はモンゴルの支配力が及ぶ地域から他地域へと普及していった。高麗
に伝わった蒸留酒は、「焼酒」と呼ばれた。5
一方で、モンゴル支配下の中国では、各地域間の文化的交流の中で百科事典的な著作が編纂さ
れた。このような類書に出ている料理関連の項目や飲食関連の専門書籍を通じ、大元帝国の多
元的世界を反映した飲食文化を垣間見ることができる。代表的に日常的な知識を盛り込んでい
る『居家必用事類全集』や『事林広記』には、当時の民間で食用された飲食が紹介されており、
当時の飲食文化の実態を把握することができる。それと共に、モンゴル支配層のために調理さ
れた料理が整理・編纂された『飲膳正要』は、大元帝国の飲食文化の豊かさを示す貴重な資料
である。興味深いことに、これらの類書に出ている一部の調理法は、17世紀から18世紀の朝鮮
後期における日用生活書である『山林経済』、『農書』、『林園経済志』に収録されており、
これらはモンゴル帝国の飲食調理法に関する知識の流通に関する端緒を提供している。
本稿では、『山林経済』や農書の『林園経済志』に出ている肉類調理法、及び飲料と関連し
た記録に基づき、それに残されているモンゴル帝国の飲食文化の高麗地域への流入現象の推移
を検討したい。それにより、13世紀モンゴル帝国の征服や膨脹が東アジア地域にもたらした文
化的影響の一面を把握し、その意味について考察したい。
2. 高麗飲食文化の韓半島流入の背景
:高麗とモンゴル間の人的交流を中心に
1260年モンゴルと和親を結んで交流が再開されてからモンゴルと高麗間の人的・経済的交流
は活発となり、元帝国の飲食文化も自然に韓半島に伝わった。6
元帝国の飲食文化の高麗への流
入に媒介となったのは、人的交流が主な要因であったととらえることができる。高麗とモンゴ
ルの関係は、1218年「哈真」と「札剌」が 1万のモンゴル軍を率いて契丹族の制圧のために高
麗に侵境したことから始まった。それから1368年に元帝国が滅亡するまで、軍人やモンゴルの
支配勢力に至るまで、様々な階層が高麗を訪問したり長期間居住したりしたが、彼らによって

5パクヒョンヒ「燒酒の興起-モンゴル時期(1206-1368) 「中国」から韓半島への蒸留技術の伝来-」『中央亜
細亜研究』21-1、2016、p69-93。
6朝鮮後期の農書で日用書籍である『山林經濟』や『林園經濟志』には、大元帝国時期の『居家必用』で紹介さ
れている料理法が引用されている。『居家必用』が高麗、或いは朝鮮時代のどの時点で流入したのかは分からな
いが、大元帝国の飲食文化と関連した知識が韓半島流入∙受容された事例としてみることができる。関連研究
は、ジュヨンハ編『東アジアの本の文化史と朝鮮時代における飲食の知識体系: 『居家必用事類全集』を中心に』
(2017、出版予定) 参考。
3
他国の文化が韓半島流入したものと考えられる。もちろん、それにはモンゴル人だけでなく、
モンゴル帝国色目人官員、イスラム商人、漢人も含まれている。
まず、高麗に下嫁した高麗の皇后らとその陪従であるケリンク (怯怜口)による文化流入が考
えられる。1274年、忠烈王とクビライの娘であるクトルッケルミシ(忽都魯掲里迷失)が婚姻
してから、両国の通婚が通例的に定着され、恭愍王代までの80年余りの期間に全部で7名のモン
ゴル人の妃が高麗にやってきた。彼女らは、ときには高麗政治に直接介入して強力な影響力を
駆使し、妃らの私属人であるケリンク は自然な形で高麗の新支配層として浮上した。7
ケリンク
は、モンゴルの有力支配層の家門に従属された奴隷で、モンゴル人の妃に付き添って高麗にや
ってきたが、その正確な数の把握は難しい。彼らの他に、王族女性が嫁ぐときに追従する家臣
を意味する「媵臣」、つまり「陪臣」もモンゴル人の妃に従って高麗にやってきた。代表的な
例として、印侯として知られるモンゴル人コラタイ(忽剌歹)、 イスラームのセンゲ (三哥)、
タングート人のシトゥール(式篤児)がある。この他にも高麗人の車信がクトルッケルミシを補
佐した。以上の記録から推察して、モンゴル人の妃が高麗に下嫁したときにモンゴル、色目、
漢人、高麗人で構成される多様な種族出身の陪臣 5-6人と奴僕が随行したものと思われる。大
元帝国の飲食文化は、このようなモンゴル王侯を始めとするモンゴル支配層を通じて高麗に紹
介されたと考えられる。
次に、高麗に派遣されたモンゴル人のダルガチ (達魯花赤)が挙げられる。彼らは、モンゴル
帝国初期から占領地を治めるために派遣された監督官である。1232年に初めて開京や西京、ま
た北界に72人が派遣され、高麗人によって殺害されることがあった。以降、1260年に高麗とモ
ンゴルの和議がなされ、スルダイ(束里大)と康和尚がダルガチに任命された。彼らの主な任務
は、高麗王室の出陸を監督し、駐屯するモンゴル軍を統率することであった。任務を終えたあ
と彼らは帰国する。その後の元宗10年(1269)、高麗権臣の林衍が元宗を廃位させたことをきっ
かけにダルガチが派遣されるようになり、1270年2月にトクトル (脱朶児)が高麗のダルガチに
任命された。以後、1278年まで、7名のダルガチが高麗に派遣された。モンゴル人出身であるト
クトル (脱朶児)と黒的、その他には、漢人の焦天翼、李益、張国綱、契丹人の石抹天衢が高麗
に派遣された。モンゴルから派遣された彼ら官員の中には、高麗支配層と通婚関係を結ぶ者も
あった。その代表的な例は、1270年のダルガチトクトルの要求による高麗大臣の金鍊家門との
通婚である。8
1283年には高麗に赴任した耽羅ダルガチのタラチが内侍である鄭孚の娘を妻にし
たことがあり9
、1289年にはモンゴル使臣のアクタイが高麗の功臣官僚である洪奎の長女と結婚
した。10以上のような支配層を中心とするモンゴルと高麗の通婚の事例から、モンゴルの風習や
文化が高麗社会に流入したものと推察できるのである。
その他にも、元帝国の命により高麗には鷹狩や鷹の飼育に従事する鷹坊が設置された。元が
設置した鷹坊の規模は 250 戸であるとされる。その管理者は、尹秀、朴義などの高麗人であった

7コミョンス「忠烈王代の怯憐口(怯怜口) 出身官員」『史学研究』118、2015、p235-236。
8『高麗史』卷 26「元宗世家」
9『高麗史』卷 29「忠烈王世家」
10『高麗史』卷 106「洪奎傳」
4
が、実際には、鷹の管理のため、モンゴル大カンは鷹狩や飼育に長けていた鷹坊子のニャンギ
アタイ [郎哥歹] 20 人を高麗慶尚道の永州などへ送り込んだ。11その事実から、鷹坊の運営のた
めにモンゴル人が派遣されたと考えられる。
一方で、1266 年以来、日本との交渉や南宋征伐に備えて高麗に戦艦の建造と軍費を負担させ、
1269 年の林衍の乱を期にモンゴル軍が高麗に駐屯するようになった。当時、高麗に派遣された
軍の規模は明確に把握されていないが、林衍の誅伐を目的としたムンケト (蒙哥都)が率いる二
千人のモンゴル軍が派遣され 12西京に駐屯した。また、頭輦哥の国王が率いる大規模な軍も西京
へ移動して元宗を護送した。1270 年 12 月、元の朝廷は二千の兵力を高麗に増員し、屯田を設置
させた。さらに、ヒンドゥとサチに 5 千の軍を与えて屯田させ 13、洪茶丘には高麗人で構成され
る領民二千を以って屯田させた。屯田は日本征伐に備えるためで、その他にも、王京、東寧府、
黄州、鳳州など、11 ケ所の屯田を配置して經略使をおいた。14 以後 1275 年には、南宋軍で構
成される蛮子軍 1400 人を海州、塩州、白州に定住させた。1276 年、元は楊仲信に幣帛を与え、
その中の 500 人には妻を求め与えたという記録が残されている。151278 年、ダルガチが撤収する
ときクビライの命によって屯田軍はすべて廃止されたが、一部は残留したと考えられる。16高麗
屯田を耕作したのは、モンゴル人、漢人南宋人、高麗人など、人的構成は多様であった。
先述したように、高麗に定着している間、高麗人と通婚する事例もあった。このような状況か
ら考えると、元帝国からやってきた屯田勢力を通じても、元帝国の飲食文化が高麗に流入した
可能性がある。その中で、焼酎の蒸留技術は高麗地域の屯田のために徴発されたモンゴル人を
介して伝わった可能性が提起されたことがある。17
一方で、1273年に耽羅へ拠点を移した三別抄勢力を鎮圧するため麗蒙連合軍が結成されてか
ら帝国末期まで、耽羅は直轄支配地としてモンゴルに統治された。この時期の耽羅に任官した
モンゴルダルガチ、駐屯軍や牧人らは耽羅に居住し、モンゴル文化の跡をこの地域に残した。
耽羅ダルガチは、屯田兵や住民に馬と牛の牧場を設置させ飼育するようにした。モンゴルの影
響は、済州の肉食文化や肉スープ、酒のような地域飲食文化の中に色濃く残されている。
高麗を訪問したモンゴル人だけでなく、大元帝国を訪問した高麗人によって元の飲食文化が
紹介された可能性もまた大きい。実際に、忠定王に付き添って大元帝国を訪れた文人である閔

11『高麗史』卷 124「嬖幸傳」
12『高麗史』卷 26「元宗世家」
13『元高麗紀事』
14リケソク『高麗-大元関係の研究』知識産業社、2013、p178。
15『高麗史』卷 28「忠烈王世家」
16『高麗史』卷 29「忠烈王世家」
17李盛雨『韓國食品社會史』 敎文社、1984、p216。
5
思平の『及菴詩集』には、「飲膳経」、つまり「飲膳正要」が言及されているが、18これは 133
0年の元文宗、トクテムル期における太医院の飲膳太医である忽思慧が大カンのために執筆した
薬膳書である。そこには豊富な元帝国の料理が紹介されているが、閔思平の詩にも言及されて
いることから、高麗後半に『飲膳正要』とそれに紹介された元帝国の飲食が高麗に知られたと
考えることができる。
3. 韓半島の飲食文化に表れる元帝国の影響19
高麗初期から朝廷は牧畜を勧奨した。馬は戦闘用や運搬に使われ、牛は主に農耕に利用され、
相対的に牛馬の食用の比重は低かった。とくに高麗では仏教が隆盛し、何度も屠殺禁止令が出
され20、成宗期には肉食を禁じる勅令まで下された。21その影響で肉食文化はあまり発達しなか
ったと考えられる。『高麗図経』の 風俗編には、高麗人の宴会場面が紹介されているが、献立
は次のように素朴に描写されている。「今時の高麗人は、平床の上にまた小さい小盤[小俎]を
置き、銅器を使用する。干し肉[鱐腊]と魚、野菜が一緒に出されるが豊かでない。」徐兢は、
高麗人の肉食に関する「雑俗・屠宰」編において次のように記述している。
「高麗の政治は非常に善良で仏を好み殺生を警戒する。そのため、国王や宰相[相臣]以外は
羊や豚を食べることができない。また屠殺を好むこともない。ただ、使臣が訪れることになる
と、あらかじめ羊・豚を育てる。(その家畜を)屠畜する際は手足を縛り付け、燃える炎の中
に投げ入れ、その息が絶えて毛がなくなると水で洗う。もし生き返ると棒で殴り殺した後、腹
を切り開き、腸胃をすべて切り、糞と汚物を洗い落す。そのため、スープや焼き物にしても酷
い臭いがなくならず、その下手さはこの通りである。」22
これらの記録を通じて、当時の高麗王室を除いて肉食摂取は難しかったことが分かる。また、
高麗における肉食は、宴会や客をもてなすための特別食だったと考えられる。肉食が普遍的な
ものでなかった状況で、高麗人の屠畜技術も相対的に発達しなかったとみられる。もちろん高
麗の北辺地域は、契丹女真との接触を通じて狩猟部族の飲食文化にさらされていたと思われ
る。それに対し、相対的に高麗内地における肉食文化は普遍的でなかったと考えられる。
ところが、1260年モンゴルと高麗の和親が成立してから、高麗地域における肉食文化は拡大
の様子を呈する。『高麗史』を記した史家は、忠烈王の后妃である斉国大長公主が母の訃音に
接して号泣しながらも、以前と変わらず肉類を摂取したと記録している。史家の視線では、喪

18「丹殼吹香風淡淡, 皺皮弄色雨溟溟, 心知此物眞仙味, 故入皇元飮膳經」(閔思平、ユホジン訳、『及菴詩集』,
ソウル、韓国古典翻訳院 2013)
19本章は、筆者の論文、趙ウォン「『飮膳正要』と大元帝国飲食文化の東アジア伝来」『歴史学報』233、
2017 の一部内容を修正・補完したものである。
20「禁屠殺、肉膳亦買市廛以進」(『高麗史』卷 2 光宗 19 년) ;「自今年限三年、禁中外屠殺」(『高麗史』卷 8
文宗 20 年 1 月)
21「禁屠殺、斷肉膳」(『高麗史』卷 3 成宗 8 年 12 月))
22『高麗圖経』巻 23「雜俗∙屠宰」
6
中にも関わらず肉食を禁ずることなく肉類を摂取したモンゴル人後妃の姿が印象的だったよう
である。肉食が主食だったモンゴル人の妃は、高麗王室にきてからも日常的に肉を摂取したと
思われる。モンゴル人が高麗にやってきて、肉を日常食として摂取できるという認識を与えた
かもしれない。
モンゴル大カンは、モンゴルと高麗が和親を結んで以来、高麗王に羊を下賜することもあっ
た。1263年、クビライは元宗に調書や500頭の羊を送り、元宗はそれを諸王や5品以上の官吏に
分け与えている。231297年にも忠烈王の誕生日を迎えて元帝国の太后が羊50頭と白鳥10匹、また
モンゴルカン室の酒を下賜しており、24忠烈王期の王室が開催した宴会では、酒と羊肉を出して
宴会を開いたとする記録がある。25このことから、モンゴルとの和親成立以来、モンゴル人の主
食であり北中国で多く摂取されていた羊が高麗王室を中心とする支配層の食卓に上がったと考
えられる。ところが、高麗の風土は羊飼育には合わず盛んにはならなかった。このように、高
麗後期には上流層を中心に祭祀と宴会などで羊肉や豚肉が使われ、庶民層では、広く飼育され
ていた鶏や犬が食用されたととらえることができる。26
一方で、高麗末の肉食の普及と共に、農作業で活用されていた牛を食用として認識するよう
になった。モンゴルとの関係が成立する以前の牛肉の食用は、羊肉や豚肉と比べて相対的に少
なく、上流層の一部が牛肉を食用したという記録がある。モンゴルと高麗の和親以来、モンゴ
ル朝廷は、牛や白鳥を徴発し貢納するよう命じた。1271年の元宗期は、モンゴルから農牛 6000
頭を要求されており、高麗に来ていた屯田兵にとっても、牛は農作業のためだけでなく食用と
しても重要であった。元の農牛徴発の要求により高麗では牧牛が行われたが、それは牛の数を
増加させただけでなく、食肉観が自然な形で高麗社会に定着していく上で重要な役割を果たし
たと考えられる。27
『居家必用』の 庚集には、元代における民間の料理文化が紹介されている。『居家必用』に
編纂された調理法は、17世紀の朝鮮で編纂された実学書である『山林経済』にその多くが収録
されている。金尙寶は、元末の類書『居家必用』に出てくる料理は、17世紀朝鮮時代の「治膳」
編に 60%以上がそのまま収録されているとし、そのことから、高麗後期に元から肉類の料理法
が伝わったとした。ただ、元の肉類料理における主材料であった羊肉に代わって、高麗や朝鮮
では牛肉と豚肉を活用したととらえている。28
『居家必用』に紹介された肉類調理法の中で、『山林経済』に引用されている事例をみると
次の通りである。『居家必用』 焼肉品のところでは、焼肉、羊膊、羊肋、羊耳舌、野鶏、䳺鶉、
羊胗肪、野鴨が、煑肉品の煑諸般肉法としては、羊肉、敗肉、煑驢馬、煑肥肉、牛肉、馬肉、
獐肉、鹿肉、熊掌が『山林経済』に原用されている。焼肉は、「肉を焼いて出す方法として、

23『高麗史』卷 25「元宗世家」
24『高麗史』卷 31「忠烈王世家」
25『高麗史』卷 31「忠烈王世家」
26李盛雨『高麗以前の韓國食生活史硏究』 鄕文社、1978、p362-363
27李盛雨『高麗以前の韓國食生活史硏究』p364。
28金尙寶、前掲書、p331-332。
7
火爐に焼く羊以外、すべての肉は串刺しにして油・塩・醤・刻み薬味・酒・酢を付け、のり
(糊)を薄く塗りつけ炭火の上でひっくり返しながら火が通るまで焼き上げ、小麦粉の皮を剥
ぎ取って出す」とする。それには、羊膊、羊肋、羊耳舌など、羊の前足、羊のあばら骨、羊の
耳や舌の焼き物料理が紹介されている。「煑諸般肉法」には、牛、羊、ロバ、馬、鹿、ノロ
アナグマ、雁肉、熊掌などの頑丈な肉、脂っぽい肉、傷んだ肉など、様々な肉類を茹でて食べ
る方法を挙げている。29高麗後期以降、韓半島では肉は食したものの干し物や煮物以外の調理法
は発達しなかったが、北宋期から元代までの多様な調理法が盛り込まれている『居家必用』の
肉類調理に関連した豊富な知識は、有効な情報を提供したと考えられる。
モンゴル帝国の形成以来、モンゴルやその支配下にあった各地域の文化が東アジアに流入
た。以上の内容を通じて、モンゴルと高麗王室が和親を結んでから、王侯、官僚、商人、軍人
などの身分で高麗にやってきた人たちを通じ、高麗社会の上層部のみに消費され仏教文化の影
響により制限されていた肉類の摂取は、より普遍化して拡大していく傾向を確認することがで
きる。
肉類の普及と共に、モンゴルの征服以後、生産が増えたのが酪と酥であった。朝鮮時代の王
室では、酪粥を常膳として食したという記録がある。酪粥は駝酪粥とも呼ばれたが、興味深い
事に、駝酪はモンゴルで牛乳を発酵させて作ったヨーグルトを意味する。これは朝鮮時代に御
貢として王家で摂取しただけでなく、朝鮮上層部でも常食され、外国からの使臣が来たときも
これをもてなした。 朝鮮時代に廐牧や牧畜を管轄した司僕寺、内医院などで進封を担当した。
朝鮮前期には、駝酪粥のような乳製品を専門的に製造する集団があり、スユチ(酥油赤)と呼
ばれた。彼らは、黄海道平安道にいたモンゴル人らで屠畜業に従事し、朝鮮初期に朝鮮王室
へ食事を供給した司饔房に酥油を上納したが、世宗 3年(1421)、朝廷はこれを廃止するよう命
じた。30このようなスユチの存在は、高麗末期から韓半島北部に居住していたモンゴル人だった
可能性が高い。また、朝鮮初期にモンゴル人が乳製品の製造を専門的に担当した事実から、乳
製品を主食とするモンゴルの飲食文化が朝鮮王室に残っていたと推察できる。では、このよう
な乳製品は、いつ頃から韓半島で食用されただろうか。
『高麗史』によると、高麗の明宗の在位期間中、翰林学士を歴任した李純佑が八関会で使う
ために牛乳で煉乳を作ったが、四頭の乳牛が全部動員され、牛と小牛が弱まることを指摘する
上疏をした。31その事実から、高麗時代の上層部では特別な行事に乳製品を製造し使用したこと
が分かる。高麗末になると、乳製品の生産がさらに専門化する様子を呈する。高麗末の禑王代
には乳牛所という御用の乳製品を製造する専門機関を置いた。ここでは、牛酪を作って王に献
上し、王はこれを近臣らに保養食として下賜することもあった。
以上の内容から、高麗末に乳製品を製造する専門の機構が置かれ、乳製品を王室に進上する
制度が朝鮮にも引き継がれたことが分かる。また高麗末に王室が乳製品を常食する風習は、乳

29キムヘスク「『居家必用事類全集』の飲食調理法の内容と朝鮮での引用」『東アジアの本の文化史と朝鮮時
代における飲食の知識体系』p77-80。
30『朝鮮王朝實錄』2「世宗實錄」世宗 3 年。
31『高麗史』卷 99「李純佑傳」
8
製品を主食とするモンゴルの風習から由来したものであり、高麗に嫁いだモンゴル王侯らや官
僚を通じてモンゴル風の飲食文化が伝わったと推定することができる。
肉類や乳製品の摂取の他に本稿で注目したことは、モンゴル帝国で飲用されていた飲料であ
る舎児別の伝来である。朝鮮時代には仏教の衰退と共に、お茶に代わって飲料が発達すること
になった。その過程で、モンゴル帝国期に飲用された飲料が韓半島にも紹介される。朝鮮後期
の日用生活書である『山林経済』には、渇水、つまり清涼飲料として「木瓜渇水」と「五味渇
水」が出ている。32また『林園経済志』には、御方渇水、林檎渇水木瓜渇水、蒲萄渇水、香糖
渇水が紹介されているが、33その調理法は、『居家必用』の 「渇水番名摄里白」の項目からそ
のまま引用したもので、『飲膳正要』にはモンゴル大カンが飲用した舎児別として紹介されて
いる。
渇水番名摄里白」は、番名、つまりペルシア語で摄里白と呼ばれた渇水である。その種類
として、桂皮、丁香、ゲファなどを入れて作った御方渇水、もぎ立ての林檎汁を煮て作った林
渇水、山桃汁を絞って作った楊梅渇水木瓜を入れて作った木瓜渇水、五味子汁を蜂蜜と一
緒に煮て作った五味渇水、ぶどう汁に蜂蜜などを入れて食べる蒲萄渇水、鬆糖、藿香の葉、シ
ョウガなどを入れて煮た香糖渇水、葛粉、鬱金、山梔、甘草などを水と混ぜて作った造清涼飲
法などの清涼飲料が紹介されている。このなかで五味子汁を入れて煮た五味渇水の製法が『飲
膳正要』に出ている五味子舎児別と非常に類似している。
『飲膳正要』、『居家必用』、『事林広記』、『山林経済』などの五味子渇水は、製法にお
いて、五味子汁を糖分と一緒に煮た後、冷まして飲む点で基本的に類似している。また朝鮮後
期に編纂された『山林経済』の五味子渇水製法は、『居家必用』の製法をそのまま引用してい
る点から、『居家必用』の料理法を参照したことが分かる。ところで、細部の調理過程をみる
と、食材の使用に多少の相異点を発見できる。『飲膳正要』では白沙糖が使われたことに対し、
『居家必用』、『事林広記』、『山林経済』では五味子と一緒に豆汁を入れて煮込み、最後に
蜂蜜を混ぜて冷ます方式を取っている。また、『居家必用』、『山林経済』の豆汁を入れると

32洪萬『山林經濟』(パジュ、景仁文化社、1973).
33徐有榘『林園經濟志』(ソウル、保景文化社、1983).
34韓国伝統知識ポータル http://www.koreantk.com/ktkp2014/kfood/kfood-view.view?foodCd=109513(検索日:
2016 年 8 月 20 日)
史料 原文
『飮膳正要』 五味子舍兒別:新北五味十斤、去子、水浸、取汁; 白沙糖八斤、煉淨. 右件一同熬成煎
『居家必用』 五味渴水: 北五味子肉一兩爲率. 滾湯浸一宿. 取汁同煎. 下濃豆汁對當的顏色恰好. 同煉熟蜜對
入. 酸甜得中. 慢火同熬一時許. 涼熱任用.
『事林廣記』 五味渴水:北五味子肉一兩爲率. 滾湯浸一宿. 取汁同煮. 下濃黑豆汁對當的顏色恰好.
同煉熟蜜對入。酸甜得所。慢火同熬一時許。涼熱任意用之.
『山林經濟』 五味子滾湯浸一宿. 取汁同煮. 下濃豆汁對當的顏色恰好. 同煉熟蜜對入. 酸甜得中. 慢火同熬一
時許.涼熱任意用之.
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いう記述に対し、『事林広記』では黒豆汁の特定材料が記されている。五味子渇水製法におい
て五味子を除いた食材の活用に差が生じたのは、各地域の風土や環境の違いによるものと考え
られる。
『飲膳正要』では、甘味を出す調味料として砂糖と白沙密が様々な料理に活用されている。
当時、砂糖生産を専担していた砂糖局は杭州に所在し、その他に泉州の永春地域は白沙糖の主
要産地であった。ここでは、ムスリムユダヤ人が砂糖の製造技術を掌握していた。このよう
な技術は、アラビア半島から泉州地域に定着したこの地域出身の技術者を通じて流入し、そこ
で製造された白沙糖は大都のモンゴル宮廷に進上されたのである。当時の元の宮廷で飲用され
た五味子渇水は、西域から伝わった白沙糖技術が加わって貴重な飲料として進上されたのであ
る。その反面、他の日用書に出ている五味子渇水は、当時、容易に手に入れることができた豆
汁を活用して製造した庶民的な飲料であった。我が国においては、伝統的に五味渇水に五味子
と一緒に緑豆が使われた。これもまた、当時の韓半島における主要生産物であり食材として多
く活用されていた緑豆は購入が容易で、韓国人の味覚にもなじんだためであろう。
結論
13世紀におけるモンゴルの大帝国建設以降、モンゴル帝国の影響力は東アジアの政治、社会、
制度などの各分野において強い影響を残した。本稿では、モンゴル襲来が東アジア地域に残し
た痕跡について文化的な側面から考察を試みた。
モンゴル帝国期には、ユーラシア大陸を網羅する広範な規模の交流が展開された。このよう
なダイナミックさは、帝国の中心部と征服地域文化に変動をもたらし、ときには地域文化の地
形を変えることもあった。本稿で考察したように、大元帝国の中心部は各地域の文化が接触
交流する場であった。モンゴルの開放主義政策により、モンゴル、ウイグルチベット、ペル
シア、漢人、高麗人が官僚として登用され、クビライ期の海運体系の整備により物資運輸イン
フラが確立され、各征服地域の物資が大都に集められるなど、人的・経済的レベルにおいて帝
国の中心部には多様な文化が共存した。この時期の文化的多様性や融合の現象を目に見える形
で示してくれるのが飲食文化である。大カンは、西アジア中央アジアから東南沿海や高麗に
至るまで、各地域からもたらされる多様な朝貢品により、各地域の山海珍味を味わうことがで
きた。
1260年モンゴルと和親を結び交流が再開されてから人的交流が活発に行われ、帝国の飲食文
化も自然な形で韓半島地域へ流入した。高麗に下嫁したモンゴルの王侯らや私属人、ダルガチ
を始めとするモンゴルの官員、駐屯軍や屯田勢力、元帝国を訪れた高麗人を通じて元帝国の飲
食文化が伝えられ、自然に高麗の飲食文化に新しい要素と認識が加わり、変化がもたらされた。
飲食文化は文化要素の中でも長期的な接触や交流を通じて受容される分野である。元帝国の飲
食文化の一部が高麗と朝鮮に受容されたことは、モンゴルと高麗の長期的、かつ広範にわたる
接触が反映されたものである。
1260年、モンゴルと高麗の和親が成立してから、高麗地域では仏教の影響で弱化した肉食文
化が流入した。しかし、大元帝国の飲食文化をそのまま受け入れたのではなく、高麗の実情に
合わせて変容した様子が伺える。肉を扱う方法や多様な調理法が流入され、羊の屠畜や消費傾
向が牛肉や豚肉に代わった。高麗末の王室や上層部を中心に、乳製品を常用する文化が出現し、
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それは朝鮮時代まで続くことになる。
一方で、大元帝国の飲料文化も韓半島流入し、選択的に受容され、変容する様相が現れる。
朝鮮時代には仏教の衰退とともに、お茶に代わって花菜、蜜水、食醯、水正果などの飲料や薬
餌性の飲清類が発達するようになった。14世紀『飲膳正要』に紹介された清涼飲料である舎児
別の調理に関する知識が17-18世紀の朝鮮後期における日用生活書である『山林経済』や農書
『林園経済志』に渇水として紹介されている。舎児別は、西アジア地域からモンゴル宮廷に伝
わった清涼飲料であるが、宋元代を経て中国地域に土着する過程の中で渇水という名称を持ち、
白沙密に代わって豆汁で甘味を出すようになった。それ以降、渇水は高麗末や朝鮮時期を経て
韓半島流入し、選択的に受容された。その過程で、緑豆が五味子と共に主材料として定着し
た。